ライフスタイル

僕が住む町の話。/文・江原茗一

歩きの街、池尻大橋。

2021年5月7日

illustration: Eiko Sasaki
2021年5月 889号初出

僕が住む町の話。

 数多くの飲食店やファッション雑貨店、喫茶、ギャラリーが立ち並び、春は満開の桜が見物となる目黒川沿いの道は、国道246号線を跨いで世田谷区の池尻へと移り「目黒川緑道」に変わる。その先は「北沢川緑道」「烏山川緑道」の二手に分かれて、どこまで続くのか私は知らない。

 元恋人の部屋は、「目黒川緑道」に面したアパートの一階で、大学卒業後勤めていた会社まで近かったこともあって、私はその狭い部屋で図々しく仮暮らしを始めた。ベランダの窓を開けていると、緑道の人工的だけれど心地の良い、小川のせせらぎが聞こえて、丁寧に手入れされた植物の香りが部屋の中へ舞い込んでくる。右には百日紅の木が、左には梅の木が視界に入る。どの植物も主役になるような均等な間隔で植えられていた。野鳥も集まる。歩いているだけで気分の良くなる憩いの道だ。そこが東京の、あの騒がしい渋谷に程近い場所であることを忘れてしまいそうだった。

 満開の桜を楽しめるのは目黒川だけでなく、そこから少し歩いた、下北沢方面へと向かう緑道が、満開の桜と舞い散った花びらで一面桃色になることを知らない人もきっと多いはずだ。混雑していない緑道のベンチでのんびりとお花見をするのが好きだった。ライトアップされない静まり返った夜桜も。夏になればたくさんのザリガニが這い出てくる。割箸に垂らした凧糸の先にイカの乾き物をつけ、子供たちがザリガニ釣りをして遊んでいた。冬になると水面がシンッとして、鯉や名前を知らない野鳥たちの様子が気になった。あの緑道を歩いていると、いつでも何かの発見があり、探検するような気持ちでどこまでも歩いて行けそうな気がしてくる。

 彼の部屋に私の私物が溢れた頃、私はその部屋から二分足らずの場所にある、小さなアパートの二階の角部屋へ越した。そのうち彼とは別れ、彼が住んでいたアパートも取り壊されてしまった。まさか自分がこんな都会の真ん中で一人暮らしをするだなんて露程も思っていなかったけれど、この頃にはすっかり池尻大橋が好きになっていた。新居のベランダの向こうには、一本の細い柿の木が植えられていて、玄関を出ればすぐ左に八重桜の大木があった。そしてアパートは野良猫の溜まり場でもあった。今も時々思い出すあの部屋の光景は、八重桜の桜吹雪につややかな柿がなる窓の外。部屋を気に入ってくれていた友人たちが、狭い部屋でケーキをつつく、桃源郷のような姿だ。

 池尻大橋は古くから暮らしている人が多いようで、閑静な住宅街だ。背の高い建物も少なく夜になれば充分に星が見えて、私は時々アパートの屋上に上がって星を見ながらビールを飲んだり、友達と電話をしたり、一服した。

 私にとっての池尻大橋は、緑道を中心とした歩きの町だった。渋谷や下北沢、三軒茶屋、中目黒は目と鼻の先で、少し頑張れば恵比寿までも行けたので、『リキッドルーム』や『バチカ』での深夜イベントがあると歩き、飽きてしまったら歩いて帰ったりもした。今も変わらない私の徒歩好きは、池尻大橋での暮らしが影響していると思う。

 近くの『山陽書店』で古本を購入したら、そのままふらふらと緑道を歩き、日光の当たっているベンチで読書をするのが好きだった。駒場東大前駅方面の高台に上がれば、夕陽や穏やかな夜景が見える。散歩ついでのたまの贅沢では、『Camino』の野菜つけ麺や『L.A.GARAGE』のハンバーガー、『ゴッホ』や『喜楽亭』のカレーを食べた。『朝日屋』の蕎麦とカツ丼のセットも、一体何度食べただろうか。現在は自家製ツナの店『おつな』となった『仁』は、並べられた大皿にお万菜が美しく盛ってあり、魚定食がとても美味しかった。

 月何度かのお決まりで、下北沢の『ほん吉』『古書明日』へ行き、その後『いーはとーぼ』で珈琲を飲みながら、読書や書き物をした。窓から下北沢一番街商店街を見下ろせる。ジャズが流れ、禁煙でないから好きだ。日暮れ前にとぼとぼと帰る。時々は三軒茶屋方面へと歩き、『グレープフルーツムーン』へと向かう道の少し手前にあるリサイクルショップ『蔵屋』を訪問する。時々良いものが見つかって、額縁や花器などの骨董を買ったりなどした。そしてもう少しだけ歩き、喫茶『セブン』のスヌーピー柄のランプシェードの下でピザトーストを食べる。夜は友達を引き連れて、『スタミナ道場』のカウンターで焼肉を食べる。夏ならば、中目黒方面の『文化浴泉』のお風呂に入りに行くのも良い。少し距離があるけれど、夏ならば湯冷めしない。

 二十代の自由な暮らしの大半を、池尻大橋で過ごした。数年前、他の土地に越し全く別の生活をおくっている私の年齢は、今年三十を迎える。立ち向かうべき無数の社会問題の中で変わり続ける私を、客観的に感じる度、様々な想いが過る。草臥れた自分を見る時、池尻大橋での生活を思い出す。あの頃の気持ちを忘れないために歩いていかなければ。

プロフィール

江原茗一

えはら・めい|ミュージシャン、文筆家。1991年、愛知県生まれ。mei ehara名義で音楽活動を行う。2017年に1stアルバム『Sway』、2020年に2ndアルバム『Ampersands』を発表。文芸誌『園』主宰、写真やデザインなどの制作活動も行う。