カルチャー

セルフィー・エンパワメント ー Matt氏に象徴される現代の写真論

文・村上由鶴

2022年8月31日

ここに白状します。
もう本当に原稿が全く進まず落ち込んでどうしようもない時や、仕事行きたくね〜と思ってうだうだと時間を過ごしながらこれではいかんな・・・と思う時、たまにやってみるのが、美肌・加工アプリで自分の顔を撮影してみることです。
わたしの原稿や研究は、自分の外見とはほとんど全くと言っていいほど関係ないわけで、それでなにかが解決するってわけではないのですが、自分の見た目を、「自分が思ったよりちょっといい」状態に見せてくれるアプリに元気をもらったり、気持ちを切り替えられることはマジであるのです。

ここ20年くらいの間、写真と顔を盛る技術は結びついて進歩してきました。
この技術はそもそも、撮影者と被撮影者が異なる場合(モデルがいる場合)というよりは、撮影者と被撮影者が同じ場合(自撮り)の撮影のために高められた技術と言えるでしょう。
写真技術自体はそのように進歩してきたのに、「加工しすぎ」という批判は(減ってきてはいるけど)いまだに健在です。

さて、「加工しすぎ」というのは、言い換えれば「写真で見栄を張りすぎ」ということです。

現状のわたしは、再び白状すればこうした「加工しすぎ」の批判を理解できるどころか内面化しており、「写真で見栄を張ること」を恥ずかしいと思う感性が染みついているからか、自分の写真を公開するとき、加工していてもしすぎには見えないようなバランスを追求する癖がついています。このような、「本当の顔」と「写真」があまりにも遠く離れてはいけないという配慮をしてしまう思考には世代間の差もありそうな気がしますね。

そしてさらに白状に白状を重ねるならば、わたしは、写真研究や執筆の中でさんざんフォトリベ(前回参照:写真技術の新しい使い方をしている写真表現)的な表現を推しておきながらも、自分の「顔」と「写真」との関係においては、どこか、写真は真実を写していなくてはいけないという前時代的な写真観に縛られているようです(それでも、美肌・加工アプリを使うこと自体の誘惑には勝てない現代に生きている…)。

さて、昨今、このような「顔」と「写真」の前時代的なつながりを解いているのは、もちろん技術の進歩の影響もありますが、市井の人々たちによる写真の使い方の変化による、自然発生的かつ民主的な革命という気がします。

その市井の人々による革命を象徴するのはやはりMatt氏の存在だと思います。
もちろんMatt氏は、父に日本球界史に残る偉大なピッチャー桑田を持つセレブリティであり、単なる「市井の人」か、と言うとやや微妙ですが、彼に対する支持は、多くの人々の「顔写真」に関する写真観の変革を反映しているように思うのです。
Matt氏の場合は、美肌・美顔アプリの「誘惑」によってついついせめて80%くらい自分だと思える程度に自分を偽るように「アプリに使われている」私とははっきりと異なり、自らが主体的にアプリを使いこなしている印象を受けます。
(そのことは、Matt氏のインタビューを読むとはっきりと理解することができます。)

とはいえ、「写真を加工することが自己実現になる」というのは、いまだに「写真付きの身分証」が効力を発揮していることを考えると、少し引っかかる部分もあるわけです。
この「引っかかり」を感じる時、加工と自分らしさは本来相容れないものだという観念がよぎってしまいますが、もはやそんな考えがよぎっているということは、現代の写真を正しく捉えられていないのではないか、と思うほど、社会の写真に対する感覚は私の感覚よりも早く変化していっているのかもしれません。

Matt氏のインタビューによれば、彼の発信は自身の加工も含めて「なりたい自分になる」ことを応援するためのもの。
写真を加工することが、「生きたい自分を生きることになる」という語りを正面から受け止めるならば、「現実の写し」として写真があるのではなく、現実の自分を写すものとして自撮りがあるのでもなく、あくまでも、フラットな現実の地続きの延長線上に写真の中になりたい自分がいるのです。
つまり、「加工はマスト」を公言しながらも、自身がスキンケアブランドの商品開発を行うなど、日々美容に注力しているようにお見受けするMatt氏におかれましては、おそらく写真は「見栄を張る」のではなく、自己実現の道具。虚勢を張っているのではなく、あくまで自分の範疇なのではないかと思うのです。おそらく、Matt氏に象徴される写真の革命の肝は、ここにあると思います。

彼が象徴するように、現代の市井の人々にとって、写真は真っ先に手を突っ込むことができる「現実」です。
それは、服を着替えたり、メイクを変えたり、好きな場所に行ったり、美味しそうな食べ物を食べるのとなんら変わらないのです。
これは、「盛る」という言葉がもはや死語になりつつあり、さらに、#nofilterがハッシュタグとして効果を持つようになった現代に特有な写真に関する観念です。

このような、「現実に手を突っ込むことができる現代」を象徴したのは、2016年ごろの小林健太の写真作品でしたが、2022年の現代では、それはもはや指摘するまでもない、一般社会に染み渡った当然の感覚になったのかもしれません。
(というか、だとすれば、もはや「加工していないように見せる加工」、そのプロセスに時間をかけている自分は、よっぽどの見栄っ張りにも、そしてテクノロジーにハッキングされた愚かな現代人にも思えてきます。だんだん恥ずかしくなってきました。)

写真家のみならず、市井の人々においても写真の使い方(やSNSとの付き合い方も)が現実の「その人らしさ」に含まれるとなると、ますます写真家の写真との付き合い方あるいは技術や思考が問われる時代ですね。
ではまた!

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ|1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。2022年本を出版予定。