カルチャー

写真のイデオロギー 信奉と冒涜のあいだ

文・村上由鶴

2022年7月31日

数年前に「写真的排外主義「フォトウヨ」とこれからの写真」という文章を書いたことがあります。

「フォトウヨ」は、文字通りネトウヨ(ネット右翼)の写真バージョンをイメージした言葉でわたしの造語です。

その文章を書いた頃、写真の業界やわたしの働いていた大学、批評、写真好きの人との井戸端会議など、写真に関わる場所で耳にするたびに違和感を覚えた言葉があったのです。

「スマホで撮った写真は写真じゃない」、「写真を丁寧に扱わないのは許せない」、「ノートリミングが写真の本来のセオリーだ」、「デジタル写真は写真じゃない」・・・

「・・・こんなの写真じゃない!」

そもそも、排外主義とは、「自分たちの集団の内的一体性を前提として、他の集団・民族・国家に対してとる排斥的、敵対的、攻撃的な態度、行動、イデオロギー」を指します。

実は、写真においてもさまざまなイデオロギーが存在していて、ゆるやかな派閥がありますが、その中でも私が思う写真的排外主義=「フォトウヨ」の特徴は、自分たちが愛する写真と異なる手法や表現、目的で制作された写真を批判するために「写真じゃない」という言葉を使う人。自らが用いる写真のプロセスや手法を信奉し、愛しすぎてしまっている人たちとも言えます。

で、その「フォトウヨ」がなんなのかと言うと、私としてはあまり推せない感性ではある「フォトウヨ」の思考でも、その考え方を借りてみるとそれはそれで鑑賞のサポートになることがある気がすると言うこと。

たとえばわたしも、写真家にインタビューをするときには「今回のカメラはどうしてそれを使ったんですか?」とか聞くことがあるように、道具(と使い方)には写真家の態度が現れます。

写真家のなかには、作品や仕事に合わせて使う道具を変えるひとは多いし、いつも同じカメラなのか、媒体によって変えるのか、作品テーマによって変えるのか、いくつかのカメラを使っていくうちに自分に合うカメラを発見したのか、などは、基本的なことではありますが、写真表現を読み解く時のヒントになります。

いわば、フォトウヨの人たちは、なんのカメラを使っているのか、どのようにカメラやプリントを扱っているのか、に着目して、他者の表現について「写真ではない」という判断を(なぜか)下す人ですから、彼らの考えによれば、ある写真家が写真的な保守/写真の革新なのか、と考えるポイントは、写真(=カメラや感光剤、フォトショ、その他写真機材)のセオリー通りの使い道に、乗っているのか/外れているのか、というところにあるでしょう。

例えば、「ノートリミングでなければ写真じゃない」、「デジタル写真は写真じゃない」、「スマホで撮った写真は写真じゃない」・・・などと、他の写真を「写真」というまとまりから排斥しようとする考えが極右のフォトウヨだとすると、そのようなフォトウヨ的感性を持った写真家は、自分の写真にはその逆方向に何かルールを課している傾向があると思います。

つまり右の極に寄った写真家のなかには「わたしの写真は必ずノートリミング」とか「絶対に6×7サイズで撮る」とか、「PORTRA(フィルムの名前)で撮るから自分の写真だ」というように、写真家と機械(道具)が固く結びつき、道具や手法がアイデンティティとなっている写真表現をする人がいます。

こうした表現では、時に、その写真家の「印」や「サイン」がカメラなどの道具に帰属します。

なお、そうした作品のなかには、カメラと写真家が一心同体になっているからこそ生み出される優れた表現があるわけですし、カメラにあった自分の表現を開発することは、写真史において繰り返されてきた大切な営みです。

ですが時に、その写真家がカメラを内蔵したサイボーグになっていたり、逆に写真家がカメラに飲み込まれているかのように感じられる写真もあります。

写真家が愛用のカメラと切り離されたときに、残る作家性はあるのか?ということは、丁寧に考えてみてもいいことだと思います(たいていの写真家は残る作家性があると言えるわけですが)。

他方、フォトウヨから排斥され「こんなの写真じゃない」と言われがちなのは、カメラや写真材料をセオリー通りじゃない方法で使ったり、写真プリントやフィルム、あるいはカメラなどを物理的に破壊したような作品です。写真を煮たり、溶かしたり、踏んだり、折ったり、燃やしたり。このような手法は「フォトウヨ」からすれば写真を冒涜しているというふうになるわけです。

彼らのような「写真を冒涜する人」は、実は、冒涜することによって「写真についての写真作品」を作っている革新です。わたしはそういう感性をこっそりフォトリベ、あるいはフォトサヨと呼んでいて、これは2010年代に顕著な傾向でした。

なお、そうしたフォトリベの人が、フォトウヨを恨んでいるか、というとそうでもなく、逆にそういう保守っぽいイデオロギーを持った写真が好きだったり、写真を始めたきっかけになっている、という人も多い気がします(体感)。

さて、ここまで、写真イデオロギーの極について書いてきましたが、フォトウヨとフォトリベの間には無限にグラデーションがあり、「極」に位置付けられる写真家は多くはありません。また、強いイデオロギーが働く環境の内側にいると自分がどういうイデオロギーを支持しちゃっているか、わからないということもあるでしょう。

例えば、「写真とは何か」ということなど考えずに、自分の使う道具のことよりも被写体となってくれる目の前の人や生物、光景と向き合いたいという人たちは、カメラというものをセオリー通りに使ってはいても、愛するってほどではないでしょう。最初に手にしたカメラを使い続けているとか、「単に道具」と捉えて、あまりカメラのことは知らないということもあります。(他方、フォトウヨは道具にめっちゃ詳しい。)

「小さいサイズである人物(Aさん)のポートレートを展示したところ、それを見た観客は「Aさんだね」と言い、同じAさんの巨大なポートレートを展示したところ、観客は「これはAさんのとても大きな写真だね」と言った」というのはトーマス・ルフの作品にまつわる有名な話ですが、多くの人にとっては、写真を見るときにも撮る時にも、写真やカメラはたまに忘れられてしまう存在です。(写真家はそれを「あえ」て意識します。 )

このように、一般には、「写真」や「カメラ」は透明なもののようにスルーされてしまい、被写体のほうに人々の意識が集中することがほとんど。

いわば写真のイデオロギーを通して写真を見るというのは、被写体よりも「写真(に対する態度)」に注目する写真の見方と言えるでしょう。あなたの好きな写真/写真家が、グラデーションのどこに位置づけられるのか、たまにはそんなことを気にしてみてはいかがでしょうか。ではまた!