カルチャー

今月、気になる顔。/大迫 傑

先日のスーパーボウルのハーフタイムショー見ました?

2022年3月9日

photo: Shota Matsumoto
text: Nozomi Hasegawa
2022年4月 900号初出

 YouTuberが引退を表明し、またすぐ復帰を発表する動画でビュー数を荒稼ぎする現代。人が何かの現役を引退するという出来事の重みが、どんどん軽くなっている。

 だからこそ、マラソンで前日本記録保持者であり、昨年の東京五輪で6位に入賞したのを最後に現役を引退した陸上選手の大迫傑さんが現役復帰を決意したと知って、心の中で思ったことがある。辞めないで続けていてもよかったのではないか、と。

「選手としてはオリンピックが一番の目標でした。それに向けて練習を重ねていく中で、どこか自分の中で本当のゴールを決めないといけないと思ったんです。五輪の後にもまた継続的な目標が立ち続けると思うと、絶望的な気持ちになってしまって。決めたことは全部やり切りたい性格なので、このまま選手生活を続けていると、最後まで頑張り切れない。そう思って引退を決断したんです」

 すごく真っ当である。トップアスリートにかかる活躍へのプレッシャーはきっととんでもないし、五輪ならなおさらのこと。“引退と復帰”という言葉に慣れてしまっていた自分を反省しつつ、あらためて走り始めることを決意した大迫さんに、なぜ現役復帰をしようと思ったのかを聞いてみる。

「走るのが嫌いになったわけじゃないので、引退後もランニングは続けていて、だんだんと競技とは違う楽しさを感じられるようになってきた。そこであらためて『走ることが好きだ』と再認識しました。その頃に、シカゴマラソンに出場した35歳のゲーレン・ラップ選手が2位になった姿を見て、純粋に選手としてもう一度走りたいなと。アスリートは記録や順位といったわかりやすい結果でどうしても評価されてしまいますが、マラソンはまわりのサポートや当日の環境の影響も受ける競技なので、気象条件みたいなものだと思っていて。だから成績を意識しすぎるのではなく、どちらかというと自分自身が『昨日より今日のほうができた』と思うことが大切だし、成長に繋がるんじゃないかと考えるようにしようと。それを今後も積み重ねていこうと思っています」

大迫傑

 現在の大迫さんは、走ることだけが仕事ではない。『SKETCH BOOK』というwebメディアを立ち上げたり、走ることをきっかけに仲間と人生を楽しむためのコミュニティ『Sugar Elite Q』で全国を巡ったりと、情報発信や後進の育成にも力を注いでいる。そういえば東京五輪の直前の日々を綴った『決戦前のランニングノート』(文藝春秋)には「テレビやネットから流れる情報をノイズキャンセリングするために、トレーニング先をケニアにした」と記されていた。情報を発信する立場ともなれば、ノイズキャンセリングしているだけでは務まらないだろう。知りたくないことも自然と耳に入ってしまうこの世の中で、情報の取捨選択をどのように行っているのだろうか。

「何事も、正しいか間違っているかの両極端で語られることが多いと思うんです。先日のスーパーボウルのハーフタイムショー見ました? 同じ世界なのかな、って思うほど観客がほぼ全員マスクをしていなかった。日本ではそんな部分を取り上げてネガティブなニュースとして発信されることがよくあるのですが、それは間違っているような気がする。他には例えば、ネットで興味のある記事を見つけても、いざ読んでみると広告案件でガッカリしたりすることも多いですよね。正直どこまでが必要な情報なのか、見極めるのは難しい時代になっていますよね」

 だからこそ純度の高いメディアを作りたいと、昨年末には信頼できる仲間と、自らが編集長を務めるウェブマガジン『SKETCH BOOK』を立ち上げたという経緯だ。

「アスリートも含め、芸術家や役者、ミュージシャンなど、何かを体現する人はみんなアーティストだと思っています。インタビューや対談を通じて、異なるジャンルのアーティスト同士が交わることで本当に意味のあるコンテンツを発信したい。大切なのはいかに健全な方法で作っていくか、ということ。タイムラインに出ては消えていく情報とは違って、読者の心に届いて、ポジティブな気持ちになれるメディアにしていきたい」

 インタビューやSNSでも、次の世代への手助けをしたいと発言する大迫さん。もうひとつ力を注いでいるのが後進の育成だ。

大迫傑

「子供たちが、スポーツを通じて人生において大切なことを学べるプロジェクト『Sugar Elite KIDS』の活動もしています。子供に走ることや体を動かすことの素晴らしさだけでなく、『目標に対してどう逆算して行動をするか』『辛いこととどう向き合っていくか』など、僕自身が競技で学んできたことも教えていて。きっと彼らがこれからの長い人生で生きていくためのスキルになると思うんです」

 これからは二足のわらじならぬ、三足のわらじ。両立することに不安はないのだろうか?

「仲間がいるので不安はありません。あくまで競技が軸にあるべきだと思っていますが、両立しながら新たなプロジェクトにどれだけ注力できるか、まずはチャレンジしていきたいです」

 私たちが生きていく中で、これで一区切り、引退だ! と思えるほど大きな挑戦がこの先どれくらいあるかはわからない。だけど大迫さんの例に倣えば、人生はその後も続くわけで。燃え尽きるような大きな挑戦の、“その後の生き方”をトップアスリートはきっと知っているんだ。

インフォメーション

Flagstaff

アリゾナ州フラッグスタッフでのオリンピックを控えた合宿に同行した写真家の松本昇大さんが、共に過ごした時間の中から汲み取った6日間の記録。『SKETCH BOOK』や古書店『BOOK AND SONS』にて、331日より発売。¥5,500

プロフィール

大迫 傑

おおさこ・すぐる|1991年、東京都生まれ。中学時代から本格的に陸上競技を始める。大学卒業後は、ナイキの陸上競技チーム「ナイキ・オレゴン・プロジェクト」に参加。2018年のシカゴマラソン、2020年の東京マラソンと、2度、当時のマラソン日本記録を更新した。

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