カルチャー
一般企業で働く彼と、売れない芸人の私。/文・ヒコロヒー
2021年12月17日
今やテレビで見ない日はないくらい、絶賛ブレイク中のお笑い芸人、ヒコロヒーさん。フリートークで元カレの話をネタにするのは聞いたことがあるけれど、本当はどんな恋を経験してきたんだろう。取材は苦手だから執筆を、と快くお返事をくれたヒコロヒーさんのエピソードは、温かくて、切なかった。
![ヒコロヒーさん](https://popeyemagazine.jp/wp-content/uploads/2021/12/DMA-DSC01245-Edit-1600x1067.jpg)
体格のいい業者のおじさんによって山積みだったダンボールは呆気なく運び出され、ものが一気になくなったワンルームの部屋は、生活していた頃よりも随分と広く見え、私と彼はどことなく爽快感のようなものに満たされていた。
「あのおじさん、ダンボール3つ同時に持ってたな」
「俺も学生時代引越しのバイトしてたけどあれできるって相当だよ」
そう言って彼はキッチンの換気扇を回し、それを合図のようにして私もたばこを持って換気扇の下まで行く。そうして二人して換気扇の下で、厳密に言えば一人はかなりはみ出る形になるけれど、いつものようにたばこを吸った。朝の残りのコーヒーを飲みながら彼がお腹は空いてないかと私に尋ねるので、少し減ったかも、と返せば、じゃあなんか食べ行こうかと彼が提案し、私は駅前の喫茶店がいいと言う。こういう時に彼が俺はラーメンが食べたいなどと言い出すことは殆ど無く、私が食べたいと言ったものや行きたいと言ったところに必ず決定し、彼は「じゃあ俺はそこでナポリタンふたつ食べよう」と笑った。
飲み終えたコーヒーカップを洗うためシンクに立てば、小窓から冷たい風が吹いてくるのが分かり、今日寒いかもね、と言うと、彼が俺の上着はおりなよ、と言って自分の持っている上着の中からどうでもいいようなものを持ってきてくれる。
「これめっちゃ変な匂いするで」
「嘘だ、うわ、ほんとだ」
「洗濯する?」
「うん、じゃあこっち着な」
そう言って彼は自分がいつも着ている青いアウターを渡してくれ、自分は何着るん、と聞けば、これでも着ようかなと、職場のイベントで使ったらしいパーティグッズのような黄色いハッピを指さしてふざけるので、ないよりましかもしれへんねと私が笑うと、インナーにしようかな、とまた訳の分からないことをふざけて言うので笑った。
彼のアウターを着てかばんを持ち玄関に立った時、背後から彼から「忘れ物ない?」と声をかけられた。
「ないと思うよ」
「あっても別にいいけどね」
そう言って彼は鍵を手に取って、私たちは駅前の喫茶店に向かった。それは彼との長かった同棲生活を、私が家を出て行くという形で終えた日だった。
今日で家を出て行く、という日なのにもかかわらず、私たちは辛気臭くなるでも感慨深くなるでも唐突に互いに感謝しだしたりするでもなく、何も変わらなかった。どこか実感が無かったのかもしれない。
一般企業で働く彼と、売れてない芸人の私が恋人同士として生活を共にしていくことは簡単ではなかったけれど、それでも長い間、上手くやっていた方だったように思う。互いを嫌いになった訳ではなかったけれど、私たちがそれぞれに描いていた未来像に気がつけば大きなずれが生じるようになっていた。何度も話しあいを重ね、私が「家を出て行こうと思う」と告げた時、彼は「わかった」と、まるで昼食を決める時のように、いつもみたいに私の意志を優先してくれた。
駅前の喫茶店までの道には溢れるように金木犀が咲いていた。私たちは二人して、くさいなあ、と笑いながら歩いていた。
文・ヒコロヒー
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