TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#4】武蔵野音楽史序説/歌の舞台としての「井の頭公園」
執筆:大石始
2025年10月5日
確か10年以上前のことだと思う。いつものように吉祥寺の酒場で深酒をし、千鳥足で井の頭公園を歩いていると、すれ違った女性がどこかで聴いたことのある懐かしいメロディーを口ずさんでいた。酔いが回り切った頭をフル回転して、ようやく思い出された。アイルランド民謡の「ダニー・ボーイ」だ。その歌声は井の頭公園を覆う雑木林が風に揺れる音と響き合い、何ともいえぬハーモニーを作り出していた。
今でも深夜の井の頭公園を歩いていると、自転車に乗って鼻歌を歌っている近隣住人の姿をよく見かける。「ダニー・ボーイ」を口ずさんでいた彼女のように、井の頭公園はなぜか鼻歌を歌いたくなる場所でもあるのだろう。
井の頭公園はさまざまな歌の舞台ともなってきた。斉藤和義「空に星が綺麗」、エレファントカシマシ「リッスントゥザミュージック」、ザ・ハイロウズ「完璧な一日」、さかいゆう「井の頭公園」などなど、挙げていけばきりがないほどだ。古くは昭和10年に発表された「井の頭音頭」という音頭もある。
広い東京の気晴らしどころ
ここは公園 井の頭よ
池に浮草 浮いてはいるが
いくら眺めても根は切れぬ
ハァ 根は切れぬ(*1)
作詞は詩人・童謡作家の野口雨情。雨情は大正13年に巣鴨から吉祥寺に移り住み、昭和19年に栃木県宇都宮市へと疎開するまで、この地で数多くの作品を書き下ろしている。大正13年ということは関東大震災の翌年。雨情は震災体験を元にして「火攻め 火の海 火の地獄 地獄よ」という一節が強い印象を残す「焦土の帝都」という詩も書いており、そんな雨情が都心から逃げるようにして吉祥寺の地へ移り住んだことは、武蔵野音楽史を考えるうえで重要なトピックとも言えるだろう。現在も井の頭公園の一角に立つ石碑には、こんな一文が刻み込まれている。
野口雨情氏は明治大正昭和にわたり民謡童謡の世界に偉大な足跡を残した詩人で、深く自然を愛し、當時まだ武蔵野そのままの吉祥寺に童心居を建て數多くの名作を生んだ。民謡は土の自然詩である。これが氏の信條であり、全作品に漲る特色であった。この地、井之頭は氏が朝夕散策愛でて措かなかった處である。(*2)
「民謡は土の自然詩である」という信条を持った雨情が、武蔵野の面影を色濃く残す吉祥寺の一角に書斎を構えていたこと。その意味を今あらためて考えている。
*1:「井の頭音頭」
*2:野口雨情歌碑
プロフィール
大石始
おおいし・はじめ|1975年、東京都生まれ。大学卒業後、レコード店店主や音楽雑誌編集者のキャリアを経て、ライターとして活動。世界各地の音楽や祭りを追いかけ、地域と風土をテーマに取材・執筆を行っている。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」を主宰。著書に、『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)、『南洋のソングライン 幻の屋久島古謡を追って』(キルティブックス)、『異界にふれる ニッポンの祭り紀行』(産業編集センター)など。
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