カルチャー

「並ぶ身体」から「観る身体」へ

Catching Art: 身体でアートを感じるために #2

2025年9月12日

Catching Art


text: Daniel Abbe

さて、今回のコラムは美術館での「観る身体」について触れたいです。美術館は「ひたすら観る場所」だと思っているのでしょうか? それはもちろん間違いではありません。だけど、観ることはそもそも目だけでは成り立たないということを指摘したい。目は結局身体から離れられないから、美術館も意外と身体的な空間なのかもしれない。

分かりやすく、まずは自分の経験から話しましょう。

今年の3月に、京都文化博物館で『カナレットとヴェネツィアの輝き』を観に行きました。西洋美術は実はそんなに詳しくないのですが、カナレットという18世紀のヴェネツィアの画家における遠近法はすごく有名で、日本でずっと前から知られている作家です。実物を見る大チャンスだと思って、楽しみにしていました。現代美術や写真にこだわる私にとって、ちょっと久しぶりに「ザ・美術展」に行く機会でした。

実際に美術館に足を運ぶと、意外と人が多かった。美術史家としてこれは単純に嬉しいことですね。後ほど作品について話しますが、まずは美術館での「観る身体」について説明したいです。

カナレット展に入ったら、私にとってちょっと奇妙なことが起こりました。ほとんどの人は一つの大きな列に並んで、そして絵を順番に、一枚ずつ観ていました。絵を少しだけ観たら、次の絵に移る。もう少し長く観たいと思ったら、まあ後ろの人がいるからね… 美術館にやや多くの人がいたら、必ずといってもいいぐらい、デカい行列は自然にできている。「できている」というか、「できてしまっている」と私は言いたいのかもしれない。

つまりこの現象は決してカナレット展に限ってというわけではないです。正しく並ぶということはもちろん悪いことではないーー特に駅やスーパーだったら! 並ぶのが正しいという常識が美術館にも適応されて、無意識で身体が反応しているようだ。だから美術館でも、「観る身体」=「並ぶ身体」ということは言うまでもなく驚くべきことではないです。

ただ! やはり美術館におけるもう一つの「観る身体」はありえると思います。ある部屋に10個の絵があっても、できるだけ早く一周して、一瞬で自分に一番深く響いている絵を感じ取って、そしてそのキャンバスの前に足を確かめること。そして5分間じっと観てください。つまり「観る身体」になってみて。他の客の行動をシャットアウトしていて、絵を受けてみる。あるいは、逆に5分間同じ絵の前に立ったら他の客の行動を観察してみてもいい。動かないからこそ、その周りを流れる人々は時に自分が通り道に立つ「固定物」のように見られていることに気づくかもしれない。そのリアクションが気になるのは自然だが、そこで自分自身のテンションをできるだけ下げないで。

もちろん、これは美術館に行って乱暴に人の邪魔などになってくれということではないよ。でも、本当に観たい作品があったら、ワガママに観よう。人のペースに合わせる必要は全くないので、潔く列から離れて、「観る身体」になってみて!

ちなみに、カナレットの作品自体はこの話とよく繋がっている。前に説明したように、彼の絵の特徴は「遠近法」なのだ。つまり彼が絵に描いている空間は立体的かのように見える。京都文化博物館のサイトか、ここでも見えるように、ハッキリとして現れる水平線、幾何学的に描いていた斜めの線、そして背景のあるビルが前景より小さく描いている。

今だと、われわれはカナレットの絵を観ると、彼の遠近法を十分に「読める」ことはできる。ただ、実はこの遠近法でさえ作られたものだ。だから幕末や明治時代に日本で遠近法を持ち込もうとした美術作家は、「観る身体」になるトレーニングが必要だった。司馬江漢という作家はその教育者の一人。彼は『西洋画談』(1799年)という文章に「望視るの法あり」など「望む処の中心とし、即ち五六尺を去りて看るべし。遠近前後をよく分かちて、真を失わず」と書いていました。

当時、観ることは当然に身体的なことだった。われわれの生きている現代には「絵から2メートル離れてみて」という指示はもういらない。それでも、美術館に入ると、「並ぶ身体」のではなく「観る身体」になることは忘れてはいけないと思う。

プロフィール

ダニエル・アビー

1984年生まれ。アメリカ合衆国カリフォルニア州出身。美術史博士(UCLA)。2009年から日本の美術や写真にまつわる執筆・編集・翻訳に携わる。現在、大阪芸術大学 芸術学部 文芸学科の非常勤講師として美術史・写真史を教えている。
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