TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#2】広報:調査的感性術
執筆:中井悠
2025年3月18日
2022年2月、水声社の編集者・村山修亮さんが「一緒に本を作りたい」と副産物ラボにやってきた。いろいろ企画を話し合ったが、どれも数年がかりの大きなプロジェクトで、「長期的に考えましょう」と言って別れようとしたその瞬間、ふと自分のデスクの上に積まれた英語の本が何冊か目に入った。それはすべてロンドンを拠点とする「フォレンジック・アーキテクチャー」という調査機関に関する本だった。主に建築で培われてきた技術を駆使し、国家権力による暴力事件を解明・再構成する集団で、僕は数年前から彼らの活動を追っていた。自分のチュードア研究も、残された楽器やダイアグラム、レシートや手紙といった物的証拠を組み合わせてかつてあった出来事を再構成する作業であり、やっていることのジャンルは違うけど、妙な親近感を抱いていたのだ。
何気なく「これ、知ってます?」と聞いたところ、村山さんが食いついて、驚いたことに「翻訳しましょう!」と即決した。最初に2017年に出版された『Forensic Architecture』という調査機関の名前がタイトルになった本を提案したが、「分厚いし、図が多いし、企画を通すのが難しそう」と難色を示したので、代わりに、図なしで短めの『Investigative Aesthetics』という出版されたばかりの本を推した。すんなり話が決まったが、そもそも翻訳業にあまり関心がないため、もっと適任者がいるのでは、という気持ちが拭えなかった。
その三日後、ロシアがウクライナに侵攻した。うちの上の子の母親はウクライナからニューヨークに亡命してきたユダヤ人で、向こうにはまだ親戚や友人がいる。ニュース画面に釘付けになり、無力感に打ちのめされていたとき、ふと手元の『Investigative Aesthetics』を開くと、「暴力が上陸する。数百人の軍隊が街に乱入する。その瞬間、街は痛みを記録しはじめる」 という冒頭の一節が飛び込んできた。その瞬間「これを翻訳しなければ」という思いにかられ、すぐに作業に没頭し、二週間で下訳を仕上げた。
だが厄介な問題も浮上した。タイトルにもある「Aesthetics(エステティクス)」という言葉の訳だ。これまで「美学」や「感性論」と訳されてきたが、本書の「エステティクス」は「人間だけでなく、すべての存在が自らの変形を通して出来事を感知し、意味を生み出すプロセス」にまで拡張されている。だから「美学」にしろ「感性論」にしろ、人間の言語をよりどころとする「学」や「論」を含むこれまでの訳語は使えないと思った。専門家ではないので、「美学」という言葉に思い入れはなく、使えないなら新しく作ればいいと気軽に考えた。そこで、「術」という言葉を拡大解釈して「感性術」という訳をひねり出した。
下訳を出版社に送った後、年内には出版されるだろうと思っていたが、なぜか作業がまったく進まなかった。2023年暮れにしびれを切らして村山さんにメールすると、「感性術」という訳語が水声社内で受け入れられず、議論が停滞していると知らされた。翻訳者としてはこの訳以外では出せないと伝えたが、出版社も引かない。このままだと、二年待った挙句にお蔵入りの可能性も出てきた。
法的措置も考えたが、国内で争っても泥沼化しそうで後味が悪い。そんな折、ヨーロッパの哲学ジャーナルから「パフォーマンスのエステティクス」特集への寄稿依頼が来た。そこで、そのテーマを「エステティクスのパフォーマンス」にひっくり返して、「Aesthetics」という概念の翻訳を通じた変遷を英語で論じることにした。「感性術」という訳語の学術的な正当性に関する議論の枠組みを海外で先に確立してしまえば、「外圧」で出版社も折れるかもしれない。
実際、「Aesthetics」を日本語にどう訳すかという問題は昔からあった。19世紀半ばにドイツ語の「Ästhetik」が日本に輸入されたとき、最初の30年ほどは訳が定まらず、「善美学」「佳趣論」「審美学」などが乱立したあげく、最終的に1883年、中江兆民がウジェーヌ・ヴェロンの『L’Esthétique』を訳す際に「美学」という言葉を定着させた。ところが、そもそもヴェロンが「エステティクス」という言葉を持ち出したのは、芸術は美しいだけでなく、恐ろしいものや醜いものも含むと考えたからだった。中江の訳語はその広がりを「美」に一本化してしまった。そして、この「誤訳」が定着してしまったのは、それが他でもない東京大学の科目名に採用されることで、日本の学術制度の中枢に登録されてしまったからだった。
こうした歴史を踏まえると、「Aesthetics」の意味が拡張されている現在、「美学」という訳語の限界を問い直すのは、東京大学にいる研究者の学問的責任であるようにも思えてきた。だがそんな大それた展望を抱えて論考を練っていた2024年7月、水声社から突然の連絡があり、「やっぱり『感性術』でいきましょう」 と、何事もなかったかのようにすんなりと出版が決まった。
そして10月に『調査的感性術:真実の政治における紛争とコモンズ』 が世に出ると、各方面で反響が起こった。東京藝術大学ではこの翻訳をきっかけに研究グループが発足し、東京大学アートセンターでも「感性術」を活動の軸にする動きが出てきた。たまたま引き受けた翻訳が紆余曲折を経て、思いもよらない副産物を生み出している。これもまた影響研究の一環としては興味深い展開だ。先日、映像作家である僕のパートナーがChatGPTに自分のことを尋ねたところ、「あなたがやっていることは感性術ですね」 と言われたらしい。
3月21日には東京藝大で、この本の共著者の一人である批判的メディア研究者のマシュー・フラーを呼んだシンポジウムが開催される。対面の方はすでに定員に達してしまったが、オンラインはまだ受付をしているようなので、関心があれば申し込んでいただきたい。
なお、『調査的感性術』と同じく二年前に訳し終えていた『Forensic Architecture』のほうも、間もなく水声社から『フォレンジック・アーキテクチャー:検知可能性の敷居における暴力』として出版予定である。必要がなくなったはずの「外圧」論文も書いてしまったので、興味がある方は(機械翻訳などを使って)以下のリンク先で読んでみてほしい。
プロフィール
中井悠
なかい・ゆう|音楽その他。東京大学大学院総合文化研究科准教授。副産物ラボ主催、アヴァンギャルド・アート(先進融合)部会主任。《No Collective》のメンバーとして音楽(家)、ダンスもどき、演劇台本、お化け屋敷などを世界各地で制作、出版プロジェクト《Already Not Yet》として実験的絵本や子供のことわざ集などを出版。制作のかたわらで実験的電子音楽、パフォーマンス、影響や癖の理論などについての研究を行なう。最近の著書に『Reminded by the Instruments: David Tudor’s Music』(Oxford University Press、2021年) など。最近の制作に、Zoomを固有の楽器として捉える《zoomusic》という架空の音楽ジャンルや、1970年代半ばに構想されたものの未完に留まっていた、孤島を丸ごと楽器化する《Island Eye Island Ear》プロジェクトの50年越しの実現など。最近の翻訳に『調査的感性術:真実の政治における紛争とコモンズ』(水声社、2024年)など。
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