TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#4】作家が「生きている」場所

執筆:菊間晴子

2024年9月2日

計4回にわたって連載させていただいたこのコラム。最終回は、私が所属している「大江健三郎文庫」についてお話したいと思います。

大江健三郎文庫は、2023年9月、東京大学文学部内に発足しました。大江健三郎に関する様々な資料を所蔵・整理し、研究・教育目的の利用者に公開しています。

オープンから1年を迎えました。来室には利用申請・予約が必要ですが、国内外から多くの研究者の方に足を運んでいただいています。

特筆すべきは、生前大江氏から寄託していただいた、約18,000枚の自筆原稿・校正刷などの資料を所蔵していること。彼の長いキャリアにおける様々な時期の小説・評論の原稿を、高画質のデジタルデータで閲覧することができるんです。

大江は終生、手書きでの執筆を続けました。ひとつひとつ、原稿用紙に刻みつけるように書かれた文字は、まさに作家の生きた痕跡そのものだと感じます。なかでも印象的なのは、そのおびただしい書き直しの跡!

大江の原稿は、丁寧に斜線を引いたり、色鉛筆(青や紫、緑色が主)で薄く塗りつぶしたりして削除箇所を示しており、元々の記述を判別可能なままにしていることが多いのが特徴。

これらの資料をじっくり読み解いていくと、作家が当初どのように書いたか、そしてそれをどのように書き直していったのかという創作のプロセスが、生き生きと、重層的に浮かびあがってきます。

画像データを見つめるたび、1枚の原稿用紙に含まれる情報量に圧倒されます。没後間もない、著作権がまだ生きている作家による自筆原稿公開は異例のことで、研究者にとっては金鉱のような…非常に発掘のしがいのある資料です。

⾃筆原稿「新しい人よ眼ざめよ」、資料ID: m018、1頁[東京大学文学部大江健三郎文庫 ©️大江健三郎著作権継承者]

大江研究者の森昭夫氏から寄贈していただいた、膨大な関連図書・雑誌のコレクションも圧巻!最新の研究書、翻訳書や国外の研究書の収集も進めていて、大江という作家の歴史だけではなく、その研究や受容の現在地がわかる拠点を目指しています。

自筆原稿画像および図書・雑誌類は文庫内での限定公開ですが、大江の著作の書誌情報を横断的に検索できる「書誌情報データベース」は、Web上で一般公開しています(こちらも、森氏からご提供いただいた『大江健三郎書誌稿』のデータを土台として構築したもの)。

文庫スタッフが日々、データベースの改良・拡充作業にあたっています。どなたでもご覧いただけるので、ぜひ試しにのぞいてみてください。

書架には、大江とほぼ同年代の森氏が長年収集された関連資料がずらっと並んでいます。大江という作家の多作さに改めて驚くとともに、これだけのコレクションをおひとりでなさったことに感嘆します。

「文庫」というワードからイメージされるのは、古びた本が所狭しと置かれた、人気のないひっそりとした空間かもしれません。しかし、大江文庫の所蔵資料には未知の情報が満ちていて、そこからはたしかに作家の息遣いのようなものが聞こえてくるように感じます。

私にとってここは、「静」の場所ではなく、圧倒的に「動」の場所。ひとつひとつの資料のなかに、大江健三郎が「生きている」からです。

現在、中心的に研究している大江作品は、1999年発表の『宙返り』です!自筆原稿の調査もしています。

そんな、作家が「生きている」場所としての文庫に、立ち上げ期から携わることができたのは幸運でした。私自身もこの場所を活用しつつ、たくさんの方にそのポテンシャルを知ってもらえるように、これからもなんとか、がんばっていきたいと思っています。

プロフィール

菊間晴子

きくま・はるこ|1991年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は日本近現代文学、表象文化論。著書に『犠牲の森で 大江健三郎の死生観』(東京大学出版会、2023年、第12回東京大学南原繁記念出版賞)。分担執筆に、村井まや子・熊谷謙介編著『動物×ジェンダー マルチスピーシーズ物語の森へ』(青弓社、2024年、担当:第1部第1章「共苦による連帯とその失敗 大江健三郎「泳ぐ男」における性差と動物表象の関係を手がかりに」)。

X
https://x.com/harukok_21/