TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#3】「谷間の村」への旅

執筆:菊間晴子

2024年8月26日

8月のはじめに、大江健三郎の故郷の地へ行ってきました。愛媛県喜多郡内子町大瀬(旧:大瀬村)。松山空港から車で約1時間のところにある、南北を急な斜面に囲まれた、山間の小さな集落です。中学校を卒業するまで、彼はここで育ちました。

多くの大江作品の舞台となっている「谷間の村」は、この大瀬の地をモデルにしています。

高台から見下ろした大瀬の中央部。まさに「谷間の村」という表現がしっくりくる地形です。

もちろん、小説に描き出される「谷間の村」は、大瀬の風景そのままではありません。それは、大江という作家の稀有な想像力によって練り上げられた架空の空間です。しかしその根底には、彼が自らの身体で感じ取った大瀬という場所の息吹、またそこに刻まれた歴史が反映されていることもたしかなのです。

2016年、まだ私が大学院生だった頃に、調査のため3週間ほど滞在してからというもの、折に触れてこの場所を訪れるようになりました。

「谷間の村」が成立する背景にあったものを知るべく、その地形や習俗・歴史調査とともに、住民の方々へのインタビューを実施。ひとりで現地に乗りこんだ当初は不安だらけでしたが、皆様に本当に親切にしていただいて、当初の予想を大きく超え出す成果を得ることができました。

大瀬の中心には小田川が流れていて、大江の生家はまさにこの川沿いにあります。普段は悠々と穏やかに流れていますが、雨が降るとあっという間に増水し、荒々しい一面も覗かせます。

私は千葉県の出身で、生まれたのは関東平野のど真ん中。実家のすぐそばには、視界が何にも遮られることのない、広大な空間が広がっています。見渡す限りの田んぼと、どこまでも広い空。それが幼少期から私の身体になじんだ原風景でした。

だから、大瀬の川沿いに佇んで空を見上げたとき、まず感じたのは驚きでした。空が、緑の斜面から成るフレームに切り取られている!しかもその北斜面には大きな墓地があり、その先に深い森が広がっている…。大瀬にやってきて初めて、大江がしばしば小説に描き出す「魂」の道筋について、心から納得できたような気がしました。

下方から見上げると一際目立つ、30m近い高さのモミの木が、大江のお気に入りの樹木でした。「もみえもん」と名付け、大切に思っていたといいます。

「谷間の村」においては、人が死んでその魂が肉体を離れると、上方の森へと昇っていって、木の根方にとどまる。やがて時がくると、魂は新しい肉体に入るために、谷間へと降りてくる。そうやって人は生まれ変わり、魂は受け継がれていく…。

大江が記すこのような「生まれ変わり」の神話が、大瀬において実際に語り継がれているわけではありません。けれども私は、彼の故郷の地に立って空を見上げるたびに、この神話はきっと、大瀬の空の下で育った健三郎少年の、身体感覚のリアリティから生まれたものに違いないと思うのです。

樹齢を重ねてもなお生命力に満ちた「もみえもん」。後に帰郷した彼は、この木の根っこを指差し、「ぼ
くが死んだらここに帰ってくる」と語ったそうです。

はじめて訪れてから早8年。大瀬は私にとっても、不思議と懐かしく感じられる場所となりました。

プロフィール

菊間晴子

きくま・はるこ|1991年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は日本近現代文学、表象文化論。著書に『犠牲の森で 大江健三郎の死生観』(東京大学出版会、2023年、第12回東京大学南原繁記念出版賞)。分担執筆に、村井まや子・熊谷謙介編著『動物×ジェンダー マルチスピーシーズ物語の森へ』(青弓社、2024年、担当:第1部第1章「共苦による連帯とその失敗 大江健三郎「泳ぐ男」における性差と動物表象の関係を手がかりに」)。

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