ライフスタイル
浴場の戦士たち/文・上白石萌歌
ひとりがたり Vol.4
2024年8月30日
「帰ったら寝るだけ」
わたしの好きな言葉だ。
鹿児島生まれのわたしにとって、銭湯へ行くというのは幼いころからの大切な習慣である。鹿児島には昔から豊富な湯元があり、銭湯へ行っても温泉が湧いているということがほとんどだった。今思えばなんて恵まれた環境だったんだろう! 週末に家族揃って近くの銭湯へ出向いていた幼い頃の思い出は、いつまでもわたしの心を温める。
大人になり上京したいまでも、銭湯へ行くのはスペシャルなイベントだ。都内を歩いているとこんなところに?! という場所に銭湯があり、発見するたびに驚く。つつましくも確かにそこに生きる人たちの営みを支える、そんなみんなのオアシスが銭湯だ。
その日、わたしはどことなくグレーな気持ちをぶら下げていた。ハードで眠れないような日々でもなく、すこぶる体調が悪いというわけでもない。目に見える大きな問題はないはずなのに、なぜだか自分の過去のささいな出来事を引っ張り出しては落ち込み、未来のことを考えては不安ばかりが芽吹く。ひとつしかない頭で同じことばかりを考えてばかりでめまいがしそうだった。
こんな風に、ときどき前触れもなく襲ってくるスコールのようなネガティブを甘くみてはいけない。このままじっとしていたら灰になる! と立ち上がり、お風呂セットを抱えてわたしは家を出た。
訪れたのは都心にある昔ながらの銭湯。入口の少ししなびた暖簾は、時間をかけてたくさんの人の愛を受けてきたことが伝わる、穏やかでいい表情をしていた。番台のお母さんのやわらかい口調や、扇風機の不恰好な佇まいが早速わたしの心をくつろがせる。
脱衣を済ませガラガラと戸を引くと、勢いよく飛び込んでくる熱い湯気に視界を覆われた。まるで異世界へいざなわれるみたい。ようこそ、と言わんばかりに視界が開けると、そこにはオアシスが広がっていた。
湯船にざばんと浸かる。ゔあーーーと声にならない声が漏れそうになる。おいしいご飯の一口目が至福の極みであるように、銭湯での最初の入湯の瞬間は特別だ。さっきまで全身にきつくまとわりついていた糸が一瞬にして切り取られていく感じがする。湯船の上に走馬灯のように浮かぶ日々のシーンたち。ひとまず毎日お疲れさまだよ、と自分を褒めてみる。
銭湯はそこにいる人たちが、思い思いのかたちでくつろいでいるのもいい。目を瞑ってもたれる人、仰向けで寝そべる人、友達と楽しそうに喋りながら浸かる人。真っ裸で集うこの空間には“偉い“や“凄い“なんて概念は存在せず、全員が鎧を脱ぎ捨てて、ありのままでいる。
その姿はたまらなく神聖でうつくしく、一枚の絵画のようだと感じる。みんなそれぞれの日々をそれぞれ戦っているんだな。ひとりひとりと固い握手を交わしたくなる。
髪を洗い終わって顔を上げると、鏡に映る火照った自分と目が合う。さっきより明らかに凛々しく澄み切った自分の顔。あっというまに眉間に活力を宿らせていて、それがなんだかおかしく、ふふ、と笑えてくる。
きっと自らを不幸にすることも幸せにすることも簡単だ。だったらなるべく自分を悲しませないでいようと、鏡の前でラフに誓った。
ドライヤーして銭湯を出れば、あとは帰ったら寝るだけ。今日はもうなにもせずに早めに寝ちゃおうか。
名も知らぬ浴場の戦士たちに心で手を振り、ふう、とひとつ息をつくと、わたしは大きく戸を引いて出て行った。
ひとこと
ついに注文していた流しそうめん器が届きました。目の前でくるくると舞ってくれるそうめんにキュン!! 一気に夏が押し寄せてきた感覚でした。これからの夏の定番になる予感。
プロフィール
上白石萌歌
かみしらいし・もか|2000年生まれ。鹿児島県出身。2011年、第7回「東宝シンデレラ」オーディショングランプリを受賞。12歳でドラマ『分身』(12/WOWOW)にて俳優デビュー。ミュージカル『赤毛のアン』(16)では最年少で主人公を演じた。映画『羊と鋼の森』(18/東宝)で第42回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。主な出演作にドラマ『義母と娘のブルース』(18/TBS)、『教場Ⅱ』(21/フジテレビ)、『警視庁アウトサイダー』(23/テレビ朝日)、『ペンディングトレイン-8時23分、明日 君と』(23/TBS)、『パリピ孔明』(23/フジテレビ)、『滅相も無い』(24/MBS)など。adieu名義で歌手活動も行う。
Instagram
https://www.instagram.com/moka____k/
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