ライフスタイル

人生か、人生のようなもの。(イン・アザー・ワーズ,シカゴ.#2)

絵・文/Korey Martin

2021年12月6日

text & illustration: Korey Martin
translation: Catherine Lealand

 窓の外にはいつも通りのシカゴのコテージが並んでいて、昨日雪が降ったとは思えない。歯磨きをしながら、ふと別の方角を見ると、ドアの隙間から僕の絵がこっちを見ている。僕がまだ描き続けるのか、それともスリフトショップで買った絵画やジャック・タチのポスターに混じって、装飾品としてこのアパートに馴染んだほうがいいのか。それを問いただすような表情を浮かべてぶら下がっている。

 日の当たらない廊下の薄暗がりの中、僕は歯磨き粉を吐き出し、もう一度その絵に目をやる。抽象的な走り描きの中にヘッドライドを見出すと、だんだん浮かび上がってきたのは、重なり合う車だ。パン屋であり、ライターもしているパートナーのジェイミーは、この絵を「ジャンクヤード印象派」と呼ぶ。彼女は半分冗談で言っているのだが、言い得て妙だ。僕の作品は雑然としていることがあるけど、アート(あるいはあらゆるもの)はジャンクヤードのようなもので、雑然としたものを整理する一つの方法だから。あなたが次に床を掃除したら、ゴッホのようなものが見つかるかもしれない。それは、時間の集積であり、あなたがその時間をどう過ごしたかの記憶だ。つまり、池の絵を描いたり、壊れたミニバンに落書きをしたりするのは、雑然とした状態を維持するための手段なのだ。

 「未完成の雑然」、これは印象派の名前の由来となった批判ではなかったか? いずれにせよ、雑然とは人生を定義するものではなく、人生を説明するひとつの方法にすぎない。それは、不確実性や可能性、つまりミステリーの余地を残すもの。美術学校を卒業してから(休学中を含めると12年)、僕は「カジュアルミステリー」に興味を持ってきた。それは、「奇妙な親しみやすさ」を感じるもので、何かを明らかにせずに説明するようなものだと考えている。例えば、私の家のリビングにあるものを「くたびれていて、モコモコしている」と表現したら何を想像するだろうか?
 奇妙でありながら親しみのあるものを求めて訪れたCity Lit(MyopicやQuimby’sのような多くのシカゴの素晴らしい書店のひとつ)で、見つけたのはシャーリイ・ジャクスンの短編小説集だ。この短編集で、彼女はごく普通の日常をとてつもなく神秘的に、かつ非凡に描いている。どの物語も、現実には絶対的なものなど何もなく、想像以上に多くのものがあるということを強調している。彼女の世界では、そして僕たちの世界でも、ミステリー(時に不吉で、時に退屈な)は、人生にとって驚くほど当たり前の出来事なのだ。
 では、このジャンクヤード印象派の場合はどうか? 抽象的な走り描きはヘッドライト……なのか? ジャクスンと同じく、僕は既知なるものとミステリーが交差する線に興味がある。それは光と影でごく普通なものを表現する、印象派の絵画における地平線のようなものだ。カバーのかかったスクーター、落とされた買い物メモ、古本に挟まれた絵など、それらは認識できるのだけど、”どこから来たの?”と尋ねずにはいられない。たしかに、どこからかやった来たのだろう。そのオープンな場所に放置された、近寄りがたい親密さが、僕には興味深いのだ。

 そういう「どこかから出現した」という感覚を、なんとか自分の作品で再現したいと思っている。少なくとも、石鹸や猫砂と一緒に自分の絵を見ると、そこにどんなアイデアが込められていたとしても、最終的には一緒に暮らすためのものだと気づかされる。くたびれたモコモコの椅子と同じように。

プロフィール

Korey Martin

1989年、テネシー州生まれ。シカゴ在住のアーティスト。その印象的な走り書きのようなドローイングは、最近では「The Quarantine Times」「Actual Source Books」に掲載されている。「POPEYE」の2020年11月号に掲載された卵料理企画のページにも、素敵な作品を寄せてくれた。