TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#3】食べものといっしょに生きている。

執筆:服部文祥

2024年12月25日

 皆さん、こんにちは。というわけで(前回前々回参照)、食べる物とは本来、自分で環境からとってくるものなのだということを、私はサバイバル登山を通して知りました。生き物(命)が食べるのは生き物(命)であり、私たちは明日食べる食べ物といっしょに今日を生きているのです。

 命は、代謝循環する炭素化合物です。常に移り変わる諸行無常な存在です。現代文明には、いろいろな保存食や食品保存方法がありますが、それらは酸素に触れないようにして酸化を防いだり、電力を使って冷やして雑菌の繁殖や酸化を抑えているだけで、食べ物は遅かれ早かれ酸化分解、加水分解して、食べ物として用をなさなくなってしまいます。缶詰や瓶詰めは10年くらいは持ちますが、食料庫に100年分、1000年分の食料を備蓄保存することは現実的に不可能なだけではなく、生きるとはなにかを突き詰めたとき、食料保存とは持続可能ではない行為です。生き物(人間)は、今共にこの地球で生きている食べ物(命)といっしょに生きていくしか、存続の方法がないからです。これらは環境保全や生態系の維持が人類にとって大切な理由のど真ん中だと、私は考えています。

 命は命を食べるしかないのに、食べるために命を奪うのは、決して愉快なことではありません。美味い、明日も生きられる、満腹などよい感情もありますが、かわいそう、痛そう、生臭い、気持ち悪いなどマイナスの感情も含まれます。命をいただくのはさまざまな感情を含んだことなのです(人間以外の生き物はそこまで複雑に感じたり考えたりしていないようです)。山の中でイワナを釣り上げて〆て食べることで、私はそのことを知りました。ところがある日、暮らしの中で食事中に、ふと気がつきました。イワナを釣って食べるときに感じる複雑な感情を、街の生活で肉を食べるときにはまったく感じてない、と。

 購入してくる肉には、マイナスの感情もプラスの感情もほとんど含まれていないのです。

 この先、肉を食べ続けるなら、肉の元になっているケモノの命を自分で奪い、本来、肉に含まれる複雑な感情を経験しなくては、筋が通らないと思いました。

 このような理屈っぽい動機に、もともとの興味も加わって、私は、狩猟を始めることにしました。山梨県のある山村に知り合いができ、その山村の狩猟チームに加えてもらって、狩猟を始めました。チーム猟で、先輩猟師が撃った鹿を初めて目の前にしたときには、大きな鹿と自分が、檻や柵なしにひとつの空間を共有している(鹿は死んでいますが)ことに、居心地の悪さ感じました。

 一方で解体では、怖れていたような気持ちの悪さや生臭さ、ドギツさのようなものを感じることはなく、それどころか解体は、料理に似た人間の所作として美しいとさえ思える行為でした。

 チームとしては毎週のように獲物がありましたが、当時(2005年から08年くらい)はまだそれほど鹿の個体数も多くなく、なかなか私の持ち場(待ち伏せ場所)に鹿やイノシシが出てくることはありませんでした。私が、自分の猟銃で初めて鹿を撃ったのは、狩猟を始めてようやく2シーズン目の最後のことでした。

3シーズン目に単独猟で獲った雄鹿。

プロフィール

服部文祥

はっとり・ぶんしょう|登山家・作家。1969年、横浜生まれ。’94年東京都立大学フランス文学科とワンダーフォーゲル部卒業。大学時代からオールラウンドに登山をはじめ、’96年にカラコルム・K2登頂。’99年から長期山行に装備と食料を極力持ち込まず、食糧を現地調達するサバイバル登山をはじめ、そのスタイルで日本の主な山塊を旅する。近年は廃山村に残る民家で狩猟と自給自足の生活を試みている。著書に『サバイバル登山家』(みすず書房)など。新刊に『今夜も焚き火をみつめながら』(モンベルブックス)。

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