TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#1】日本の山をフリークライミング。

執筆:服部文祥

2024年12月11日

1996年 K2山頂

 こんにちは。登山家の服部文祥です。若い頃は「登山家なんて職業はない」と思っていたので、登山家、と名乗るのはちょっと恥ずかしかったのですが、いいおっさんになって、自分がどういう立場で世界を見ているのか、と考えたとき、何よりもまず登山者として世界を見ていると気がついて、ちゃんと登山家と名乗るようになりました。

 私は食料や燃料を現地調達し、できるだけシンプルな装備で山に登る「サバイバル登山」を主な活動にしています。この登山のスタイル――装備を少なくし、できるだけ自給自足を目指す――は、わざわざ自分に負荷をかけて登っていると思われることもあるようです。

 私がサバイバル登山を始めたのはフリークライミングの思想に影響を受けたためです。最近、スポーツクライミングがオリンピック競技になって、広く知れ渡りましたが、スポーツクライミングはフリークライミングのトレーニング方法として考案された人工壁(クライミングボード)から生まれたスポーツで、フリークライミングとはちょっと違います。

 そもそも近代登山は、高山に人類は到達できるのかという純粋で科学的な試みとしてヨーロッパで生まれました。19世紀後半のことです。その頃は山頂に到達できるなら、どのような科学技術を持ち込んでも構いませんでした。人類はまだ科学文明をほとんど手にしていなかったからです。当時の登山者は現代からはちょっと考えられないようなつたない装備(当時の最新装備)でアルプスの山々や、ヒマラヤの山々に登りました。そして目に付く大方の山を登ってしまうと、今度は、より難しい切り立った岩壁に挑みはじめました。

 岩壁を克服するためにいろいろな工夫が考案されます。最初は細長い丸太を岩稜に担ぎあげ、険しい岩の段差に立てかけ、その丸太を助けに難所を越えていました。丸太が木のクサビや鉄のハーケンに変わり、最終的には岩にドリルで穴をあけ、ボルトを打ち込むという方法にまで発展します(これを人工登攀といいます)。このボルトの誕生で、理論的に登れないところはなくなりました。

 ところが、この人工登攀に疑問を持つ人が現れました。理論的にどこでも登れて、作業をすれば誰でも登れるなら、そもそもの岩に登る意味があるかという疑問です。人工登攀では、対象が岩壁でもビルの壁でもやることが同じです。究極的には、山にロープウェイを架ければ、誰でもその山に登れます。でも、ロープウェイで山頂に行って、登山をしたという人はいません。登山とはなにかをよくよく考えると、自分の手足で登ったとき、人はそれを登山といいます。

 岩壁を登る登山者(クライマー)も、岩を自分に都合のよいように加工すれば登れるに決まっていると気がつきました。それは自分たちが岩登りに求めていることではない。それではクライマーが岩登りに求めていることは何か。それはあるがままの岩をあるがままの自分で登ることなのではないのか。

 岩の突起や割れ目など、自然な形状だけを利用して、自分の手足だけで登ることこそが「登ること」と彼らは考えました。フリークライミングのはじまりです。フリークライミングの「フリー」はフリーハンドのフリー同じで、そのまま訳すなら「素登り」になります。

 岩の形状を自分の身体でなんとか利用し、バランスが取れる動きを組み立てながら登る。それは身体全体で考える創造的運動でした。

 もし登れなかったら(岩を加工するのではなく)、自分を鍛えて(自分の肉体を高めて)出直す。その姿勢はフェアネスの心地よさに溢れていました。

 自然環境は有限なので、岩壁を「加工して」登っていては、いつかあるがままの岩は地球からなくなってしまいます(二番目以降に登る人は原始の岩を登ることができません)。でも、あるがままの岩をあるがままの人間が登るのであれば、岩は永遠にあるがままで、誰もが原始の岩を登ることに挑戦できます。フリークライミングは持続可能な行為でもあるのです。

 さて、日本の山はどうでしょうか。

 山に林道ができたり、ロープウェイが架けられたりすれば、山頂からの風景を誰もが平等に楽しめると喜ぶ人はいます。登山者であっても、道が拓かれたり、山小屋が整備されたりすれば、登りやすくなったと考えます。でも、山を加工してしまったら、あるがままの山をあるがままの自分で登る100パーセントの登山はもうできません。

 どうすれば日本の山をフリークライミングのように創造的で、フェアで、持続可能に登れるのか。そう考えて私は、フリークライミングを真似て、できるだけ装備を使わず、登山道も使わず、もちろん山小屋も避けて登ることを考えました。そして日本の山には食料(イワナや山菜)や燃料(薪)があるので、それらを現地で調達しながら登ってみようと思いました。

 それは、自分にあえて負荷をかけるのではなく、できるだけ自分の力を発揮するための方法です。道具をシンプルにする、といっても自分の力をよりフェアに発揮するための道具(衣類や鍋や靴やタープ、釣り具など)は積極的に使用しています。

 サバイバル登山は、ときにカエルや蛇を食べたりするため、ちょっとキワモノと思われることもあります。ただ私にとってはできるだけ自分の力で登ることを目指すためのやり方です。登頂という目的から見ると、サバイバル登山は「登頂効率」を下げるかもしれません。一方で、自力という点を考えるなら、サバイバル登山は「自力発揮効率」が優れたよりシンプルな登山スタイルといえます。

 フリークライミング的に山に登る方法は他にもあります。例えば豪雪地帯の冬山は雪で山の人工物が埋まるため、原始の姿の山に登ることが可能です。

 あるがままの山を、できるだけ自分の力で登ろうと考える登山者はあまりいません。その意味でフリークライミング的な登山者は絶滅危惧種といえるかもしれません。そんな、自力登山の先に何があるのか、次回以降紹介してきたいと思います。

自力で生きる格好いい人たちは世界中にいます。これは、パキスタン北部で自給自足に近い暮らしをしながら、夏は登山隊の荷物を運んで現金を得る人たち。

プロフィール

服部文祥

はっとり・ぶんしょう|登山家・作家。1969年、横浜生まれ。’94年東京都立大学フランス文学科とワンダーフォーゲル部卒業。大学時代からオールラウンドに登山をはじめ、’96年にカラコルム・K2登頂。’99年から長期山行に装備と食料を極力持ち込まず、食糧を現地調達するサバイバル登山をはじめ、そのスタイルで日本の主な山塊を旅する。近年は廃山村に残る民家で狩猟と自給自足の生活を試みている。著書に『サバイバル登山家』(みすず書房)など。新刊に『今夜も焚き火をみつめながら』(モンベルブックス)。

X
https://x.com/hattoribunsho