CULTURE

[中編]養老孟司さんの昆虫観察記は驚くほどエキサイティングだった。

2021.06.03(Thu)

text: Takeshi Yoro
edit: Keisuke Kagiwada
illustration: Kanta Yokoyama
2020年6月879号初出

甲虫標本の作り方と見方
文・養老孟司

見るという作業はそう簡単ではない。見るのは眼だが、網膜に入った像は、輪郭を作るなどの処理を経て、大脳皮質の第一次視覚野に入る

 網膜から第一次視覚野への直接の入力は第一次視覚野への入力全体の十分の一だとされている。あとは脳の他の部位からの入力である。つまりその意味では、われわれは「脳で見ている」のであって、眼だけで見ているわけではないとも言える。

虫を見たときにまず思うことは、これはなんだという疑問であろう。つまり名前である。正確に名前を知ること、これを同定という。虫好きは子どものころから図鑑を見て大略を知る。分類学では界、門、綱、目、科、属、種を階層的に分ける。昆虫は綱で、節足動物門、甲虫は現在ではコウチュウ目と言い、その中にはおおよそ四十ほどの科が分けられる。捕まえた虫の科がわかれば、虫屋としては一人前であろう。属と種までわかれば、ほぼ専門家に近い。甲虫の科の数は五大陸でほとんど変わらない。これは大陸塊が互いに分離する以前に、科のような大きな分類群はすでに成立していた可能性を示唆する。

甲虫を見て科がわかるということは、科に関するパタン認識ができているということである。言ってみれば違うものを探せとか、仲間はずれ問題のようなほとんど幼稚園レベルの問題に近い。これを厳密にやろうとすると、検索表が必要となる。昨年亡くなられたゾウムシの専門家森本桂九州大学名誉教授は、検索表が読めるようになったら、検索表は要らない、とよく言っておられた。検索表とはアミダクジみたいなもので、二分岐を繰り返しながら、種に到達する。

セミで例示するなら、

1)翅は褐色不透明で模様がある→3)
2)翅は透明で模様がない→4)

アブラゼミを持っているなら、1)になるので、ミンミンゼミやクマゼミなら表の2)を見ればいい。3)には体長3センチ以上3センチ以下とあるので、以上の方を見ると、アブラゼミとある。以下ならニイニイゼミとなっている。

ここではわかりやすくするために翅の色や体長を使ったが、きちんとした検索表だと観察するのがかなり面倒な形質を利用していることが多い。その形質が捉えられないので、検索表が使えなくなるのが普通である。ドイツ系の図鑑はふつう検索表形式になっている。欧州系の人は事物を階層的に整理するのが得意である。上に述べた界、門、綱、目、科、属、種という階層はその典型である。これは言語表記に関係する、つまりアルファベットを使い、主文副文という文法構造を持つからだというのが私の意見で、言語そのものが階層性を含んでいるから、階層的な見方が当然というより前提になるのであろう。最下層に文字があり、その配列と結合で一段階上に単語が生じる。g、o、dと並べたら神だが、逆にd、o、gと並べたら、神がイヌになってしまうという椿事が生じる。原子論はそれを自然界に応用したものかもしれない。二十数個の文字で言語表現のすべてが可能なのだから、百ほどの元素の配列と結合で自然界が構成されるのは不思議だとは思えないのであろう。

標本を見ていると、さまざまなことに気が付く。まず違いに気付くことが多い。とくに同じ種類の虫でも、国内の場合、採った地域によって違いが見える。むし社の『日本産カミキリムシ大図鑑(Ⅰ)』はその意味で見てみる価値がある。同種が数頁にわたって図示されている。地域によって色彩が微妙に違ったりするからである。もちろん種内変異が元来多い種もあって、これは同定に困る。典型はいわゆるテントウムシ、ナミテントウであろう。テントウムシは科名だが、ナミテントウは種名である。橙色の地に十九の黒点があるのが典型的な型だが、黒地に橙色の二つ星、四つ星も普通にある

困るのはそれぞれの型に類似種がいることで、橙色地に黒点はナナホシテントウ、トホシテントウ、ニジュウヤホシテントウなどがあって、素人は混乱するはずである。見慣れてくれば、種の違いは色だけではないとわかるに違いない。自宅の近くや庭で虫を続けて捕まえていれば、普通に見られる種がわかってくる。どのような環境で見つかるかも理解されてくる。こうした「立体的な」知識が同定に重要である。

地域差があまりに大きいと、別種にされることが多い。どこがどう違えば別種なのかという問題は、専門家やそれに近い人たちの間でも議論が絶えない。これは広い意味での差異と同一性という問題で、これについては『遺言。』(新潮社)で基礎を論じたから、参照されたい。虫を見ていると、「同じ」とはどういうことで、「違う」とはどういうことかを始終考えさせられる。そんなこと、忙しくて考える暇なんかない、という人が世間では多数派であろうが、些細な違いを巡って、殺し合いになったりするのがヒトだと思えば、この種の問題を考えることも、ないがしろにはできないと思う。

後編に続く

プロフィール

養老孟司

ようろう・たけし|1937年、神奈川県生まれ。医学博士、解剖学者。’89 年に『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。主な著作に『バカの壁』『虫の虫』『遺言。』『半分生きて、半分死んでいる』『神は詳細に宿る』など。最新著は山極寿一との共著『虫とゴリラ』。また、幼少期から昆虫採集を始め、10万点以上の昆虫標本を所蔵している。
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