カルチャー

阿部和重さんにインタビュー。

9年ぶりの短編集『Ultimate Edition』刊行記念!

2022年12月19日

photo: Nathalie Cantacuzino
text: Keisuke Kagiwada

阿部和重さんの9年ぶりとなる短編集『Ultimate Edition』が発売中だ。神町三部作(『シンセミア』『ピストルズ』『オーガ(ニ)ズム』)で、皇室を含む日米関係に肉薄した阿部さんの目は今、世界に向いているらしい。実際、『Ultimate Edition』では、驚くべきことに、ジャイル・ボルソナロ、ウラジミール・プーチン、金正恩などが重要な役割を演じているのだ。そんな阿部さんに、小説家として日本を含む世界の現状と向き合う理由を聞いた。

——今回の短編集に収録された作品タイトルは、「It’s Alright,Ma (I’m Only Bleeding)」(ボブ・ディラン)とか「Green Haze」(マイルス・デイヴィス)とか、すべて既存の音楽の曲名から引用されています。前回の短編集『Deluxe Edition』収録の短編にも同じ仕掛けがありましたが、どのような意図が込められているのでしょうか。

動機としては、それぞれの楽曲が既に持っているイメージによって、個々の短編が描こうとしているニュアンスがよりクリアになるんじゃないかと思ったのが1つ。さらに、わたくしの作品では1つの言葉に2つ3つの意味合いを持たせるということをよくやっていて、長編のタイトルなんかもそのように付けているのですが、楽曲名を引用すればそういう多義性が強調されるかなと。つまり、クリアにする面もあれば、同時にいろんな意味も喚起する面もある。そんな狙いが、このタイトルの付け方にはあるんです。

——作品タイトルに既存の楽曲名を使うという手法は珍しいことではありませんが、阿部さんの場合はすべて原題のアルファベット表記です。その点は新しいんじゃないかと思いました。

なるほど。確かに、カタカナ表記にする、あるいは日本でのみ流通している邦題を使用する方が、日本語で読む人たちにとっては意味が通りやすいし、そういう使い方をしている作家の方が多いと思います。実際、わたくしも一瞬考えました。英語のままでいいんだろうかって。ただ一方で、最近は映画でもポップミュージックでも、いちいち邦題を付けず、英語のタイトルをそのまま採用している場合も多いじゃないですか。そのため、なんのこっちゃというタイトルが増えているんだけれど、すんなり定着している印象もある。だから、英語表記でもいいんじゃないかと。

それに今はスマホを始め調べるツールを1人1台持っているような時代ですから。それを活用すれば簡単に引用元にたどりつけます。だからこそ、英語表記のタイトルを剥き出しのまま冒頭に据えて、「なんでこのタイトルになっているんだろう?」と意味を考えてもらう、そのプロセスも読書体験として味わっていただきたいという意図を感じとってもらえるかなと思ったりもして、英語のままにしました。

あと、小説のタイトルって短編の場合は特に、最初しか意識されない気がしないでもない。だけど、タイトルと中身の連携で表現できる部分を個人的には重要だと思っていて、その重要性をもう1度復権させたいなという思いもありました。これだけしつこく英語のタイトルにしていたら、そこに目を向けてくれる人たちがいるんじゃないかなと。もちろん、それでもスルーされてしまうこともあるかもしれませんが……まぁ、そんな意図があったりします。

——タイトルについてはさらに聞きたいことがあるのですが、それだけで終わってしまうと困るので具体的な作品の内容についても聞かせてください。「Green Haze」にはジャイル・ボルソナロ、また名指しはされませんが「Hunters And Collecters」ではプーチン、「Eeny, Meeny, Miny, Moe」では金正恩と誰もがわかる人物が登場します。ここまで世界各国の国家元首が重要な役割を果たす短編集はなかなかありません。

わたくしは『アメリカの夜』という小説でデビューしているんですね。あの小説では「特別な存在とはなんぞや?」ということを描いているんですが、そのテーマをずっと考え続けているところがおそらくあって。以前書いた神町三部作で皇室を取り上げたのも、その問題意識の延長だという思いがありました。

もちろん、皇室の問題を語り尽くしたとは思わないですが、しかし三部作でとりあえずの区切りを付けたので、今は国家元首のような世界の「特別な存在」と呼べる人たちが、どんなことをやっているのかってことに目を向けて、それについて書いていこうという考えが固まったんです。

また、『シンセミア』を書き始めた頃より、さまざまな国際情勢に触れやすい環境が整備されたというのも大きいです。以前は報道記事を読むと言っても、国内メディアのものが中心でしたが、ここ10年くらいで、各国の記事がすぐ翻訳されて配信されるようになりましたから。さらに、翻訳アプリも充実しているので、外国語の記事の内容も確認できるようになりました。

そうやって数多くの報道に触れていくと、ドナルド・トランプに歩調を合わせるかのように、問題ありの国家元首が次々に登場していることを思い知らされるわけです。しかも、ミニトランプと呼ばれていることからも明らかなように、みんなトランプのようにキャラクター化されて報道されている。それはそれで問題だなと思いますけれども、こちらとしてはそういう人たちを取り上げて、小説に書くということに意気込みを覚えるようになっていったというわけです。

——そういうことだったんですね。確かに神町三部作、特にその第一部にあたる『シンセミア』では皇室の問題を扱われています。しかし、ごく一般的な主人公一家の名前や家系図を読み解くと、実は皇室と重なってくるという具合に、描き方が隠喩的ですよね。その点、今回の短編の元首たちは名前が明かされることもあり、登場の仕方がかなりダイレクトだと思いました。神町三部作の最終部『オーガ(ニ)ズム』にも、バラク・オバマその人が重要キャラとして登場していましたが、この隠喩からダイレクトへという反転は何なのでしょうか?

おっしゃる通りで、きっかけは『オーガ(ニ)ズム』です。神町三部作は『ピストルズ』を挟んで、『シンセミア』と『オーガ(ニ)ズム』が鏡のように対になっているんですね。だから、『シンセミア』では隠喩的に皇室を描き、『オーガ(ニ)ズム』では誰が読んでも一目瞭然の形でオバマが登場する。そうやって三部作という一つの円環を閉じたわけです。

同時に『オーガ(ニ)ズム』は、これからどうやって小説を書いていこうか考えながら書き進めていたところもあるんです。だから、三部作の終わりではあったけど、その後の仕事にも繋がっている。例えば、『オーガ(ニ)ズム』が単行本化されてすぐ連載が始まった『ブラック・チェンバー・ミュージック』では、ドナルド・トランプと金正恩の米朝会談が物語の起点になっていて、『オーガ(ニ)ズム』の構造をさらに展開するという組み立て方になっています。『Ultimate Edition』に収録された短編の執筆時期は、『ブラック・チェンバー・ミュージック』の連載と重なっていたので、直接国家元首に言及するような作品を書いていこうと思ったんです。

——『Ultimate Edition』には、国家元首の他にもイーロン・マスクやグレタ・トゥーンベリに言及した作品、それからロシアやシリアの現実を題材にした作品があります。ただ、そうした現実をダイレクトに描いていると見せかけて、最後に衝撃的などんでん返しがあったりもしますよね。ネタバレになるので詳しくは言いませんが、そのどんでん返しは“メディア的なレイヤー”にまつわるものと言えると思います。これは世界の報道記事を検索しながら書くという阿部さんの姿勢の反映なのでしょうか。

その通りで、自分なりのささやかな倫理観なんです。世界中の出来事にアクセスしやすくなっているとは言っても、現地に取材に行っているわけではありません。報道の記事を読んでいるだけに過ぎないわたくしとしては、間にメディアが入っているんだという距離感も、作品の構造にわかるように入れておかないとまずいだろという思いが非常に強い。だから、いろんな変なオチを、この短編集では試しているんです。直接その出来事を描くのだという思いで物語を作りつつ、しかし最終的にこれが現実だと思ってはいけない、というその二重性。そこも含めて書くことが、情報社会の中で、あるいはその情報を利用して小説を書く上での倫理ではないのかなという考えなんです。

わたくしは90年代によく書いていた映画の評論の中で、疑似ドキュメンタリーという撮影スタイルを批判してきたんですね。具体的には、当時大流行した『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などのような手ぶれあたりまえのハンディーカメラで撮られた、モキュメンタリーとかフェイクドキュメンタリーとか呼ばれている種類の映画です。なぜ批判したかと言えば、映像文化っていうのは、嘘の出来事でも本当っぽく表現すれば、リアルなものとして捉えられてしまうという危うさがあるから。90年代はそれが手法化されて、いろんな作家が意図して使うようになった時代ですが、これはよくないなという気持ちで見ていたわけです。 案の定、00年代に入り、ネットが広く使われるようになって以降、フェイクとリアルの境目がさらに曖昧化していきました。そういう状況を見通して、批判してきたわたくしとしては、当然どうすればいいかということも自分の創作に見える形にしておかなければならない。そんな思いで書いています。

——なるほど。現実をダイレクトに描くという意味で、個人的にもっとも心を掴まれたのが『Ultimate Edition』の最後を飾る「There’s A Riot Goin’ On」でした。人生にうまくいってない男が爆破テロを計画するという話です。阿部さんはかつても少年がトキを保護センターから盗もうとする、ある種のテロを起こそうとする『ニッポニアニッポン』を書いていますが、あの作品のトキはさっきの話で言えば隠喩として機能していたと思います。しかし、「There’s A Riot Goin’ On」の主人公は、近年の日本で起こったいくつかの事件を想起させるという意味でかなりダイレクトな描き方だし、かつ本作に限っては大どんでん返しもありません。これはどういうことなのでしょうか?

なるほど、すごく重要な指摘です。たしかに、『シンセミア』と同時期に書いていたこともあり、『ニッポニアニッポン』には隠喩的な意図がとても強くありました。トキをめぐるさまざまな情報を組み合わせることで、日本の皇室の問題との類似点をあぶり出し、結果的にテロを引き起そうとする小説ですので。『ニッポニアニッポン』は、そうやって世間で報道されている情報が、別の意味に反転していくという読書体験を味わってほしくて書いた小説でした。

一方、「There’s A Riot Goin’ On」は、現実に起きている事件の後を追うような形で書いています。と言うのも、“ジョーカー事件”とネットで呼ばれるような一連の出来事の報道を見ていると、犯人の人物像に自分がかつて書いてきた何人かのキャラクターと重なる部分があるように感じられたからです。もちろん、自分が書いたこととは関係ないと言うこともできる。しかし、自分としてはそう思えなくて、今起きている事件について自分なりに新しい小説を書かなきゃいけないんじゃないかという気持ちになったんですね。

もちろん、こうした事件は起きないに越したことはありません。わたくし自身、起きないためにはどうしたらいいかとも考えるんだけど、これからもきっと起きてしまうでしょう。それを防ぐことはおそらく社会にもできない。じゃあ、起きてしまうとして、万人にとってより不幸が少ない形に持っていけないんだろうか。そこを可能性として考えてみたくて書いたのが「There’s A Riot Goin’ On」。この形だったら、事件がたどる方向性だけは変えられるんじゃないかという、そこの可能性を見たかったんです。小説を書いているだけの人間には、可能性として考えることしかできないので。だから、大どんでん返しも起こらない。おそらく人生に大どんでん返しは起こらないし、それを信じられる人たちも今はほとんどいないと思うので。 若い人たちが、これからの人生に暗い見通ししか持てなくなっていると近年ずっと言われています。あるいは、報道を通してそう思わざるをえないような状況が続いています。そんな中で、「こういうことがありうるかもよ」っていう明るいエンディングの小説を書いても、普通に嘘っぱちにしか見えないと思うんですよね。それだったら、異世界転生ものを読んだ方がよっぽどいいわけです(笑)。じゃあ、そっちを書かずに、信じられるシチュエーションはあるのか。そのギリギリを攻めてみたのが、あの短編だったんです。

——お話を聞いていて、阿部さんの目がどうして世界に向いているのかよくわかりました。ところで、世界を見据えるという意味では、伊坂幸太郎さんの『マリアビートル』が『ブレット・トレイン』としてハリウッドで映画化されましたよね。お二人は「CTB」という同じエージェンシーに属しており、『マリアビートル』の映画化はこの「CTB」の働きかけの賜物だと聞いています。阿部さんも自作のハリウッド映画化を見据えていたりするのでしょうか?

えっとですね、見据えればハリウッド映画化されるわけでもなくて……「CTB」の二人はとても頑張ってくれているんですけどね、だからまぁ、わたくしももっと頑張らないといけません(笑)。

インフォメーション

Ultimate Edition

ジャイル・ボルソナロ、ウラジミール・プーチン、金正恩、イーロン・マスク、グレタ・トゥーンベリから、さらには嵐やA.B.C-Zなどジャニーズアイドルに着想を得た作品(!)まで、“世界の今”を描く16篇を収めた短編集。¥1,895/河出書房新社

プロフィール

阿部和重

あべ・かずしげ|1968年、山形県生まれ。1994に『アメリカの夜』で群像新人文学賞を受けてデビュー。『シンセミア』で伊藤整文学賞などを受賞。『グランド・フィナーレ』で芥川賞、『ピストルズ』で谷崎潤一郎賞。ほかに『ブラック・チェンバー・ミュージック』など著書多数。