今度は線を逆向きにたどって、自分に一番近い「現場」のことを考える。そのきっかけになってくれるのは、目の前にある一台のテープレコーダーだ。

テープレコーダー。説明が必要かもしれない。かつてはこれで音楽や人の話を録っていた。磁気を帯びたテープがヘッドと呼ばれる部分を通ると電気が生じ、音になる。録音は逆の過程で、ヘッドが電磁石となって音を記録する。テープはリールに巻かれており、ヘッドの上を左から右へ送られる。左にはこれから録音・再生されるテープを、右には空のリールをセットする。リール・ヘッド・リールというのがテープレコーダーの基本的な構造だ。
二十数年前までは標準だったのに今や使われることの少なくなったこの機材のことを再び考えるようになったのは、コロナ禍のために自宅での録音作業(宅録)が増えてからのこと。でもなぜ今、僕はテープレコーダーに惹かれるのだろうか。

テープレコーダーでは音は、テープ上の決まった位置に記録される。録音された時間は距離に変換されて、テープという実体としてあらわれる。モノなので、テープ上の時間は進めたり戻したり繰り返したりできる。それはパソコンやサンプラーでも可能だが、耳で位置を確かめ、道具を使ってテープを実際に「切り貼り」する作業は、やり直しのきくデジタル作業とはまったく感触が違う。細いテープの上に一方向に収められた「時間」は、文字通り手で触れられるような「密度」を持っている。
時間軸の表現方法も異なっていて、パソコンでは表示された曲の上をカーソルが動くのに対して、テープレコーダーではヘッドは動かずにテープの方が動く。ヘッドにとってはテープと接触する瞬間だけがすべてで、その前後にどんな音楽があったか・あるのか「知る」ことはない。どこか、地図を見ずに「一筆書き」で進む僕の街歩きの気持ちに、似ていなくもない。

コロナ禍の中で「宅録」作業を続けていると、時間の拠りどころがなくなってしまうことがよくある。だから最近は、演奏を1テイク録ったらすぐにそれを採用することにしている。何度もやり直すと、曲に込められた時間の流れがどんどん弱くなってしまうのだ。テープに収められた音の感触はずっと「テイク1」であって、後戻りできない時間、という音楽における一番大事なものをいつも思い出させてくれる。今の僕の「現場」である自宅の、目につく場所にいつもテープレコーダーを置いているのは、そんな理由からだ。

テープを使った音楽作りの技法には深い歴史があるのだけど、その根底には、流れ方を変えることのできない時間というものを何とか自分の思い通りにしたい、という気持ちが横たわっているのではないかと思う。僕が左から右に送られるテープの流れを見、音を聴いて心がざわざわするのも、このところ、時間は一方向にしか流れないという当然のことを噛みしめなければならないようなできごとが多かったからかもしれない。