カルチャー

僕の駆け出し時代/塙 宣之

2021年5月19日

たとえ辛酸をなめようと、走り続けるほうがいい。先輩の新人時代の話を聞けば、素直にそう思えるはずだ。

くすぶり続けたお笑いへの思い。漫才協会が運命を変えた。

 ボケとツッコミが淡々と切れ目なく繰り出されるナイツの漫才には、「絶対に笑える」という安心感がある。そのすべてのネタを書く塙宣之さんのもう一つの肩書は、東の重鎮的芸人が多く在籍する浅草漫才協会の副会長。まさに、お笑い界のエリートと思える塙さんだけど、駆け出しの頃は今とはまったく逆の人間だった。

「中学校から友達とお笑いコンビを組み出して、大学では歴史のある落語研究会に。ただ、当時の僕はまったく努力しないタイプでした。落研の先輩だったエレキコミックの今立進さんは朝までネタ作りに励んでいたのに、僕はステージでもずっとアドリブばかりに頼っていて、面白さの差は歴然。しかも、自分がやる気が出ないのを相方のせいにして、度々コンビを解散するという負のループに。今の相方、土屋伸之とコンビを組んだ後もお笑いで食っていくイメージが掴めず、普通の就活に顔を出したりもしました。『こんなに興味のないことを仕事にするくらいなら、死んだほうがマシだ……』と早々に脱落しましたが(笑)」

 プロ意識に欠けていた「ナイツ」だが、ウッチャンナンチャンなどでもお馴染みのマセキ芸能社にかつて土屋さんの母親が在籍していたというコネで、同事務所に入ることに。そのとき、事務所の会長から「浅草の漫才協会に入らないか」と誘いを受ける。

「会長にとって、浅草から若手のスターをつくることが夢だったんです。僕たちは漫才協会の舞台よりも、テレビやライブに出たいから断りたかったのに、なぜか『入らないなら事務所をクビにする』と無理やり入会させられて(笑)。内海桂子師匠の弟子に入りました。当時は協会に若手が全然いなくて、お茶くみから、呼び込み、掃除まで全部やらなくちゃいけなかった。環境に慣れるだけで必死。学生の頃のように、相方が悪いとか、そんなことを考えている暇もない。それまでは老人向けだと思っていたけど、師匠たちのネタが衝撃的に面白くて、お笑いに対する価値観が大きく変わりました」

 こうしてプロの芸人への一歩を踏み出した。漫才協会に入って約3年がたった頃、彼らの芸風を決定するきっかけが訪れる。

「2004年だったかな、NHK新人演芸大賞の予選に出る直前、出番を待つ廊下で土屋と揉めたことがありました。当時、世間では『エンタの神様』が盛り上がってきて、“あるあるネタ”みたいなのが流行っていた。それで、僕たちも『何か違うな〜』と思いながらも、流行りに寄せたネタを作ってみたんです。土屋は予選でそれをやりたがったんですが、僕は反対した。ナイツのイメージは地味だから、キングコングとかオリラジみたいになるわけがない。『漫才協会で培ってきた“芸”を究めていくことが、売れる最短ルートなんじゃないか』と正直な思いを伝えた。土屋も納得してくれて、その日はこれまで浅草で何度もやってきたネタを披露。結局、予選には落ちてしまったものの、ナイツの方向性は定まりました。そこで、本気で芸の精度を磨こうと、一日1本ネタを書いてブログにアップするようになったんです。アクセス数なんて微々たるもんだったけど、ネタの質が見違えるほど向上しました。これまで累計で3000本以上は書いたんじゃないかな」

 塙さんは地道な努力を続け、ついには「ヤホー」という特大ホームランを放つ。今は安泰に見えるが、塙さんは「みんなの言う“安定のナイツ”に落ち着くつもりはない。今年はまた攻めますよ」と強調するのを忘れなかった。