カルチャー

「写真家」と文明を生きるわたしたちに違いはあるのか―「あえ」る写真論

文・村上由鶴

2022年2月1日

美術館やギャラリーで、いまだに写真が芸術として展示されていることって、よくよく考えたら謎。スマホで自分が撮った写真、そこそこいい感じじゃない? わたしも写真家なれちゃうかも? でも難しいことはなんとなくわかっている。でも「写真家」っていうひとたちの写真とわたしの写真の違いって何だろう? 美術館とか写真集で写真を見て「なんかいいなー」と思うけど、「なんかいいな」以外の楽しみ方があればいいのになーと思う人のために書きます。

インスタでフォローしているインフルエンサーが、「質問募集します!」といって、インスタの質問機能を使って質問に答えるやつ、あれ、結構読み込んでしまうのですが、ちょこちょこ目にする質問のひとつに「画像加工アプリ何つかってますか?」というのがあります。

「Lightroom」とか「VSCO」、それから「BeautyPlus」(自撮りならマストになりつつある)などなど、いくつかのアプリを組み合わせていたり、なかにはフィルムカメラで撮影したフィルムをスキャンして(そのうえアプリで加工して)公開する猛者なんかもいたりとかして、写真学校の新入生(だった10年弱前のわたし)よりも確実に写真に対しての強いこだわりが、その質問の答えにははっきりとあらわれているのを度々目にします。

このように、ここ10年弱の間に、写真やカメラをどう使うか(not何を撮るか)ということが、その人が自分をどう見せたいか?というライフスタイルも含むファッションの一部に組み込まれるようになりました。その質問者さん含めフォロワーのみなさんはそれに影響を受け、実際にアプリをダウンロードしたり、フィルムカメラ始めてみたりなんかしちゃうというわけですね。

さて、そこで頭をかすめるのは、そういう人たちと「写真家」との違いはあるのか?ということ。

というのも、例えばインスタのフィード画面のパッと見の印象を整えるために写真の彩度や粒子感、そして写真の投稿順を気にしている人は少なくないはずです。

その人たちがやっていることは、「写真家」が作品としての写真を発表し、写真集を作ることによく似ています。自分らしい撮り方を開発し、それを徹底し、並べ方を考える・・・。おそらく時間も、人によってはお金もかかっていることでしょう。しかも熱意もあるわけです。

何を撮るかはもちろんの前提として、写真の質感の洗練・統一に注力する。映える「もの」を撮るのではなく、写真それ自体がこのインターネット空間のなかで映えるように工夫することは、現代の写真家が作品を作るのと大差ありません。

かといって、もちろん、整えられたインスタのフィードを持つ人は自分のことを写真家だとも思っていないはずです。

では、一般の写真の(ヘビーめ)ユーザーと、写真家の違いはどこにあるのでしょうか。

この答えはいくつかあると思いますが、わたしはそのひとつとして「選ばなかった選択肢に理由があること」が重要なことだと思っています。そして、このことが、「なんかいい」より一歩踏み込んで、写真を読み解くヒントになるかもしれません。

写真というプロセスは、とにかく選択の連続です。被写体、構図、質感、編集、出力の方法などなど・・・。写真家のひとたちというのは、あえて笑顔を撮らなかったり、あえてPhotoshopを使わなかったり、あえて高画質にしなかったり、あえて額にいれなかったりすることで、自分らしさを「開発」します。

たとえば、写真の芥川賞と言われる「木村伊兵衛写真賞」は、日本を代表する写真家に与えられる賞ですが、2017年度に受賞した藤岡亜弥は、これまで幾度も撮影されてきた広島を、原爆の街として撮らないことによって、それでも残ってしまう「ヒロシマ」感に目を向けさせました。2015年度に受賞した新井卓は、「ダゲレオタイプ」という最古の写真技法を使うので、紙やフィルム、デジタルカメラなどといった現代の写真機材を使いません。さらに、前回(2019年度)受賞した横田大輔は、もはや、写真を撮らないのです。撮影しないのに写真だ!と言い張っているのは正直意味不明と言っても良いと思います(が、同時に、「この方法は写真でしかない」といえるポイントもおさえています)。

このように、写真家とは、自分らしい撮り方を開発し、それを徹底し、写真の並べ方を考える人ですが、そのうえで、どこかのプロセスであえて既存の選択肢を捨てた人、つまり「あえ」る人といえます。いわば、インスタグラマーが「映え」ならば写真家は「あえ」なのです。

その「あえ」にこそ、その写真家の新しさや重要性が宿るのです。

もちろん、SNSで写真をファッションとしてまとう人々も、あらゆる選択肢のなかから自分らしさを選び取っているわけではあるのですが、自分を(文字通りの意味で)盛れない・映えない・イケてない感じにしたいという目的を持って服を着る方というのがごくごく少数派であることと同じように、インスタのような、盛る・映える・イカす(?)プラットフォームでの写真へのこだわりは、基本的にやはり盛る・映える・イカす方向で用いられているわけで、その場に最適化されているので「あえ」ではありません。ここに違いがあるのです。

ちなみに、写真家のなかにも「あえ」てない人ももちろん多くいます。まっすぐ、深く、撮影すべき風景やもの、ひとに向き合って感動し、何度も足を運び、その対象をとらえるために最も適切な方法で撮影する「ストレート写真」とか「ドキュメンタリー写真」というジャンルでは、「あえ」的まどろっこしさや遠回りはありません。

実はこの手法こそ、アマチュア写真やインスタ写真(「#写真好きな人と繋がりたい」というハッシュタグの世界など)との違いが出にくいところ。ですからこのことは写真と運動神経の話として、また次回、詳しくお話しできればと思います。ではまた!

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ  | 1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。2022年本を出版予定。