TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#2】裸馬に乗る

執筆:手塚日南人

2025年11月16日

乗馬の訓練をしに北海道へ来て、二週間が経った。
薪割りから始まり、ボロ(糞)拾い、倒木の解体、トラックでの運搬などの下積みを経て、ようやく本格的に馬に乗るための指導をいただけることになった。

もっとも、これは単なる乗馬レッスンではない。
明治期の開拓農民を描く映画のための役づくりである。
まずは馬に手綱をつけるところから始まった。

「こうやるんだよ」と言われ、見よう見まねで試す。やり直す。またやり直す。
蜷川さんは、教えるというより“やってみさせる”タイプの人だ。
とにかく、自分の身体で覚えるしかないことを知っていらっしゃる。

いよいよ馬に乗る段になっても、初めは特に説明はなかった。
「はい、じゃあ乗ってみて」とだけ言われ、言われるままに跨がる。
その瞬間、馬がぐっと前へ出ようとした。
「降りろ!」という声が飛ぶ。リンちゃんはぴたりと止まった。
私は動けずに固まる。すると蜷川さんが近づき、リンちゃんの首を軽く撫でながら、
「えらいな〜リン!ほんとにいい子だね〜お前は、えらいえらい」と優しく声をかけた。
そして私の腕を掴み、引きずり下ろすようにして降ろしてくれた。

「まぁそうなると思ったけど、どうなるか見てみようと思ってね。まぁ、そうなるよね」
少し笑いながら、そう言った。

この一見“荒っぽく”見えるやり方も、決して無謀なことではない。
むしろ、馬と人との信頼を確かめるための、この牧場ならではのやり方なのだ。

実は蜷川さんの牧場には、さまざまな経緯をもつ馬たちがいる。
引退した馬、飼い主の事情で預けられた馬、もう行き場のなかった馬。
そうした馬たちに、再び心を休めて生きられる場所をつくることを大切にしている。
彼の“指導”は、そうした馬たちの心を知り抜いたうえでの、静かな信頼関係の上に成り立っているのだ。

人間に対しても、きっと同じように心の距離感を大切にされているように思う。

蜷川さんと奥さんの千鶴子さん

かくして始まった裸馬での訓練。
ハミも鞍も鐙もない、縄の引き綱だけで、森の中を進んでいく。

私の乗馬体験は今回で4度目だったが、まさかいきなり裸馬に乗るとは思ってもみなかった。
履いていた長靴が少し大きく、足が抜けそうになる。
変に力が入る。腰も固まる。馬がブルブルと息を吐くたび、緊張が伝わる。

やがて、馬のテンポが速くなった。縦に揺れ、お尻が浮く。体のバランスが崩れる。
落ちそうになる寸前で、またゆっくりと戻る。
そんなことを何度か繰り返しながら、徐々に慣れていく。

「リラックスして。やじろべえみたいに、ただまっすぐ乗っかってるだけでいいんだよ」
蜷川さんの声が、森の奥へと溶けていった。

乗馬の様子

考えると、うまくいかない。
考えないと、うまくいく。
理由は単純で、思考こそが緊張を生んでいるからだ。

馬を信頼して、ただ委ねる。
それが一番むずかしく、そして一番大事なことなのだと思う。

蜷川さんは、決して無口というわけではなく気さくな方でもある。
ただ、大事なことは言葉よりも沈黙の中で教えてくれた。
きっと身体で覚えろというより、身体で感じろ、という人なのだ。
こうして、私の乗馬修行は本編に入った。

一方の奥さんはとてもおしゃべりな方で、いつもニコニコと話しかけてくれる。
修行のあとにはいつも、奥さんが焚き火を用意してくれていて、私にも“小さなご褒美”をくれる。

「焚き火があるだけで、会話が心地よくなるでしょう?」と言いながら、
ブロック塀で囲まれたお手製の焚き火台で、お湯を沸かし、コーヒーを勧めてくださる。

こうやって蜷川さんと奥さんと話すたび、二人の中にある馬と生きるという暮らしの哲学が感じられるのだ。

リンちゃんとのツーショット

それにしても、どんなに硬直しても暴れずに歩いてくれたリンちゃんには、感謝しかない。
きっと彼女が落ち着いていられるのは、蜷川さんたちが長い時間をかけて、丁寧に心を通わせてきたからだ。
馬と人とのあいだに積み重ねられた信頼――その静けさに、胸が温かくなった。

明治の開拓民たちも、こうした信頼を糧に生きていたのだろうか。
次回の滞在ではさらに馬との暮らしに踏み込んで、「馬耕」の作業も体験してみたい。

そんなことを思いながら、今日も馬と、森の奥へと歩いていく。

プロフィール

手塚日南人

てづか・ひなと|1995年生まれ。東京都出身。早稲田大学在学中にスペインへ留学。帰国後、アイヌ文化を探究するため2018年に北海道へ移住。森林ガイドや映像クリエイターを経て、2024年より俳優として本格的に活動を開始。

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