TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#1】BMCへ行って、共同体について考えた

執筆:永原康史

2025年7月15日

 アメリカ、ノースカロライナ州にブラックマウンテンという小さな町がある。アパラチア山脈南部のブルーリッジにある山間の町だ。古くはチェロキー族の土地だったが、ヨーロッパからの入植者による侵攻があり、白人たちの手に落ちた。しかし場所は山のなか、辺境である。都市部はすでにイングランドやドイツ系移民のテリトリーになっており、移民としては後発の、アイルランドやスコットランドから飢饉を逃れてやってきた人びとが定住した。

 山の暮らしは過酷だ。彼らは音楽を奏で、歌を歌い、ダンスを踊って、自らを癒やした。ヒルビリー(田舎者)と馬鹿にされた彼らの音楽はマウンテンミュージックとも呼ばれ、アメリカンルーツミュージックのコアのひとつとなった。ブラックマウンテンは、今でも音楽が盛んな土地柄だ。

 ブラックマウンテン山脈にはアパラチア山脈で一番高いミッチェル山があり、夏は涼しく、秋は紅葉が鮮やかで美しい。そのため観光地として注目され、東部の避暑地としても栄えた。

鉄道の時代を思わせるブラックマウンテン駅。今はモニュメントとして残っている。

ワインショップで演奏する地元バンド。壁にはフィドルやダルシマーなどの楽器が並ぶ。

 ぼくは2018年から、このブラックマウンテンに頻繁に通っている。音楽を聴くためでも、紅葉を見るためでも、ましてや夏の暑さを凌ぐためでもない。ブラックマウンテンには1933年から57年までの25年間、ブラックマウンテンカレッジ(BMC)という名の学校があった。その学校のことを知りたいと思って通っているのだ。

 BMCのことは、このスペースでは語りきれない。簡単に説明すると、既成の大学からはじき出された教員たちがつくったリベラルアーツスクールで、進歩主義教育を標榜し、教育の基礎に芸術をおいたことに特徴がある。バウハウスから着任したジョセフ・アルバースはじめ、ヨーロッパの亡命芸術家や科学者を受入れ、戦後アメリカ美術を牽引するアーティストやブラックマウンテン詩人と呼ばれる作家たちを輩出した。

 かつてのキャンパスはYMCA(キリスト教青年会の施設)やボーイズキャンプになっていて、許可を得ればなかに入ることができる。校舎も残っている。ノースカロライナ州の西部アーカイヴやBMCの美術館もあって、写真や資料もたくさん保管されている。それらを訪ねて、パズルのようにBMCを組み立てている。

BMC跡地、エデン湖のむこうに見える今も残る校舎。今はボーイズキャンプの事務所になっている。

常にBMC関連の展覧会が開かれているBMCミュージアム+アーツセンター。地下展示室ではマース・カニンガムのダンス映像が上映されていた。

 BMCは正式に認可された学校ではない。「カレッジ(college)」は単科大学など教育機関を指す言葉だが、集団、団体など、ひとかたまりの一群を意味する言葉でもある。BMCの「カレッジ」はその両方の意味をもっている。学校でありながら、教員と学生が共に住み、働き、学ぶといったコミューン的な性格も色濃い。

 このシリーズでは、BMCから考えた共同体について話してみたい。#2につづきます。

プロフィール

永原康史

ながはら・やすひと|グラフィックデザイナー。印刷物から電子メディアや展覧会のプロジェクトまで手がけ、メディア横断的に活動する。2005年愛知万博「サイバー日本館」、2008年スペイン・サラゴサ万博日本館サイトのアートディレクターを歴任。1997年~2006年、IAMAS(国際情報科学芸術アカデミー)教授。2006年~2023年、多摩美術大学情報デザイン学科教授。『日本語のデザイン 文字による視覚文化史』(Book&Design)、『よむかたち デジタルとフィジカルをつなぐメディアデザインの実践』(誠文堂新光社)など著書多数。2024年には現地に通って書きためたリサーチと旅のエッセイ『ブラックマウンテンカレッジへ行って、考えた』(BNN)を上梓した。第24回佐藤敬之輔賞など受賞。