TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#4】21世紀でも人は動物になれるようです。

執筆:服部文祥

2025年1月1日

 皆さん、こんにちは。というわけで(前回前々回前前々回参照)、狩猟を始めて2シーズン目の最後に自分の猟銃で鹿を仕留めることができました。そして3シーズン目には、狩猟解禁後すぐに、今度は単独猟で、立て続けに鹿を仕留めることに成功しました。肉にまつわる複雑な感情を知りたいという願望は、この単独猟で、血抜きから解体、荷(肉)下ろし、精肉、料理、実食と食肉にまつわることを丸々経験し、達成できました。そこには、予想を上回るような、本当にさまざまな感情がありました。

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北海道の日高山脈で出会ったオス鹿。

 そもそも山に暮らすケモノに、一方的な暴力で介入してよい(撃ち殺してよい)ということは、登山とは違う緊張感が満ちていました。登山の場合、山は無生物なので、こちらの気力と体力が充実していて、気象条件がそれほど悪くなければ、所期の目的を成し遂げることはそれほど難しくありません。でも、ケモノに接近して撃つには、体力や技術や根性だけではどうにもならないことがあります。というより、気合いを入れすぎると、まるで殺気を悟られたかのように、ケモノが離れていくのではないかと感じます。あきらめて帰るときや、狩猟ではなく登山で山に入ったときの方が、あきらかに獲物と出会う機会が多いのです。

 獲りたいという気持ちを鹿にぶつけるのではなく、鹿に寄り添うように、鹿の気持ちになって考え、鹿の目線で森を見ようとして、少しずつ、獲物が増えていきました。「かつて人間は動物になれたし、動物は人間になれた」という北米先住民の言葉があります。人間とケモノが入れ替わることなど、厳密にはあるわけありません(最近はバーチャル技術を使ったボディシェアが高精度で可能になり、種を越えた感覚共有も実験されていて、狩猟者にとっても興味深い報告がなされています)。ただ、鹿の目線や気持ちを推測することはできます。鹿になったつもりで森を見渡してみて、鹿には自分がどう見えるのだろう、と考えたときには、新鮮な驚きがありました。鹿にとっては私は、強力な武器を持った捕食者(プレデター)、雑食で攻撃的なホモ・サピエンスでした。人間の社会の中にいるときは、自分が人間であることを意識することはほとんどありません。ですが、鹿目線で世界を見て、自分がヒトなんだ、という当たり前のことをはじめて強く意識したとき、世界の見方が少し変わりました。しかも、私が考える私は、鹿になった私を撃つために森に入ってきているのです。自分が自分を撃とうとしている? という奇妙な倒錯感がそこにありました。

 自分を撃ち殺すくらいの気持ちで、獲物と向き合うべきだということでしょうか。獲物の命をいただく覚悟といえば聞こえはよいですが、狩猟は一方的な暴力です。そんな覚悟は加害者側の「きれいごと」といわれても反論はできません。

 私の圧倒的な暴力で大きなケモノが命を失い、目の前に倒れているのを見ると、後戻りのできないことをしたという事実と、手に入れた肉体を有効に利用しなくてはならないという責任がずしんとのしかかってきます。そして、私はいつも、自分もいつか死ぬのだ、と思います。いつか、私が撃ったケモノのように私も死に、何か別の命に有効利用されなくてはならないのだと思います。

 鹿をなんとか獲れるようになったとき、ふと、夏にイワナを食料としているサバイバル登山を、冬は鹿を食料にしてできるのではないかと考えました。そして実際に冬のサバイバル登山を始め、それが「秋の北海道無銭サバイバル登山」や、「廃山村での自給自足生活」の試みに発展していきます。その話はまた別の機会にしたいと思います。4回の連載おしゃべりに付き合っていただき、ありがとうございました。

冬のサバイバル登山の試み。

プロフィール

服部文祥

はっとり・ぶんしょう|登山家・作家。1969年、横浜生まれ。’94年東京都立大学フランス文学科とワンダーフォーゲル部卒業。大学時代からオールラウンドに登山をはじめ、’96年にカラコルム・K2登頂。’99年から長期山行に装備と食料を極力持ち込まず、食糧を現地調達するサバイバル登山をはじめ、そのスタイルで日本の主な山塊を旅する。近年は廃山村に残る民家で狩猟と自給自足の生活を試みている。著書に『サバイバル登山家』(みすず書房)など。新刊に『今夜も焚き火をみつめながら』(モンベルブックス)。

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