TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#2】遊ぶ庭という名の宇宙

執筆:田口雄一

2024年10月21日

料理畑ではないと、前回コラムで書いてしまったので、何処まで自分の過去を掘り下げるか悩んでいる。ただ、ここの話を書かないと先に進めないので綴ってみる。20代、自分はもともと洋服のブランドをやっていた。

新しい洋服を作っては、展示会で発表し、半年後にその洋服を届ける。この半年前に半年後の洋服を作り、届けてからは、どんな人が、どんな風に洋服を買っているか「顔」が見えない世界に違和感を感じていた。

自分はやっぱり八百屋気質なんだと思う。その日仕入れたものを美味しいよ〜と言いながら、その日に売って、その時のリアクションを肌で感じ、喜びを得たい。

しかし、肌に合わなかったら合わないなりに、アイデアを振り絞っては、自分たちなりの挑戦をしていた。神宮前に週末だけ姿を現す「AsyL」というショップを作り、そこで沢山の出会い、経験をさせて頂いた。中でも、生地のスペシャリスト西川岩夫さんとの出会いは宝物だが、そこまで話しを膨らませてしまうと大変なので今回はこの辺で。

その洋服時代に、週に一回水曜日だけ、沖縄料理「あしびなー」というお店でアルバイトをしていた。この経緯などもどこから摘んで良いかわからないが、書きながら考えてみることにする。

あしびなーは、金城吉春さんが亭主として営んでおり、「あしびなー」という言葉にはヤマト(日本)の言葉で「遊ぶ庭」という意味がある。

当時のウチナー(沖縄)出身の人たちは、まだ差別があり、東京にいても沖縄出身ということを隠していた。吉春さんは当時の生きにくかった沖縄の皆んなと集い、祭りや芝居やエイサーなどを立ち上げ、そのときの苦しみを、楽しみに変える循環を自然にやっていた。

オキナワの人も、ヤマトの人も、一緒にチャンプルーできるような「遊ぶ庭」を作りたかったのではなかろうかと、今、芋の炭酸割を飲みながら想像した。

もともとはペンキ職人で、おばーの料理が大好きで、その料理を思い出しながら作っていた独学料理人だ。

吉春さんという人間は、なんでも自分で作ってしまう職人で、作れないのは椅子だけと笑いながら豪語していた。吉春さんは、読み書きができなかった。自分がバイトしている時に、沖縄という漢字を書けた時には皆で喜んだ。
とにかく、野生と直感だけで生きてきた方だ。無口でシャイで、呑むと陽気になり、ギャグを言ったり、語ったり、三線を弾いたりする。

そんな 吉春さんから初めて教わった料理は、ミミガー(豚の耳)大根サラダのドレッシングだった。

ある日、今から教えることがあるから厨房に来なさいと呼び出され、はじめてのことに心の臓が飛び出しそうだった。

教えてもらったレシピはこうだ。
吉春 田口、今から言うことをメモしとけ
田口 はい!わかりました。
吉春 先ずはボウルにケチャップを、ビューー、ビューー、ビューー、ビュ!
そのあとはマヨネーズを ビュ!ビュ!ビュ!ビュ!ビュ!だ。 わかったか?
田口 はい…(心の中で何を言ってるか全然わからなかった。)
吉春 その後はこれをマジェマジェ。マジェマジェ。マージェ、マジェ、マージェ、マージェ。マジェ。この色だ。この色を覚えておけ
田口 はい…。

その時おれは察した。この人は「音」と「色」の世界で生きているんだと。
ペンキ屋出身の知恵を、色で活かし、読み書きできない言葉のハンデを音で補っていた。
ケチャップやマヨネーズなどを押し出すことは「ビュ!」混ぜることを「マジェ」と言い
色を確認するボウルのことを「パレット」だと教わった。
これがはじめて学んだ自分の料理の世界である。味ではなく、音と色だった。

吉春さんは、掃除にも厳しい人だった。モップをかける時に使う、バケツの音が、「ジャブジャブ」と聞こえなかったり、トイレ掃除の「ゴシゴシ」が聞こえないと、こっちに飛んできては頭を叩かれた。不思議と、本当に手を抜いていた時にそうだったからびっくりする。

そんな幾多の苦行?を乗り越え、あしびなーの「出汁」をとる作業を任される日が来た。
この出汁は、沖縄そばは勿論、チャンプルーなど全てに使う、いわば あしびなーの命である。
拳骨、鶏ガラの掃除をしてから湯こぼしなどをし、昆布などを入れ、アクをとったり、火加減を調節したりしながら出汁の機嫌をとる。
なかなか体力は使うし繊細な作業ではあるが、学んでいく中で、この作業が好きになった。というか性に合った。誰もいない厨房でひとり、自分のペースで唯一できる時間。
出来上がった時に、出汁に塩だけをして飲む日課が至福だった。複合的な味が単一化し、とても豊かな味がした。この出汁を毎回とってるうちに、不思議と、これさえあれば最低限生きていけるのではないかと、ふつふつ込み上げる何かがあった。その感覚が「湯気」として今でも続いている。

忘れないうちにあしびなーの名物料理を。

クーブイリチー(昆布と豚バラ、椎茸の煮物)

タマナータシヤー(キャベツだけ炒め)

ゴーヤチャンプル

てぃびちおでん(豚足のおでん)

赤焼(ケチャップ焼きそば)

バイトのおれらのことを 吉春さんは「バイター」と呼んでいた。

営業が終わると、 吉春さんとの賄いタイムが始まるのだが、そのことを「呑みティング」と命名し、色んなことを話し、聞き、語り合った。朝日が迎えてくれることも多々。あの尊い時間は今尚自分の周りをふわふわ彷徨っている

最初のコラムに題した「すくぶん」は、
沖縄のことばで、「役割」や「使命」を指す。

吉春さんが、呑みティングの時に、田口、沖縄には「すくぶん」て言葉がある。人にはそれぞれ役割っちゅーもんがあるだろ?と話を続け

すく、って言葉には
掬う(すくう) と
底(そこ) って
意味があるんではないかと語り出し

ようするに 「すくぶん」てのは、
すくうぶん そこにあるぶん

田口、お前が自分の底にあるものを静かに掬ってみなさい。
それがお前の役割だよと言われ、俺は突然の静かな声に耳を傾けることしかできなかった。
すぐさま吉春さんが「わかるかな〜 まだわからないだろうな〜」と、手首を触りながら微笑んだ。

金城 吉春
1954年生まれ。沖縄県南風原町出身。1980年に上京し塗装の仕事に就き現場で働く日々の中、沖縄を思い出し三線を弾くようになる。沖縄出身者が集う「ゆうなの会」をきっかけにエイサーに取り組み、その後、東京・中野北口広場を拠点にして「東京エイサーシンカ」と「チャランケ祭」で活躍していく。踊り、歌、祭り、沖縄料理ーーそれらを通してさまざまな人たちの間に多くの縁を生み続けている。 中野新道エイサー地方。沖縄料理あしびなー店主。

プロフィール

田口雄一

たぐち・ゆういち|1984年群馬県生まれ。
『沖縄料理あしびなー』 『佐藤家常教室』を経て、新中野で中華料理
『湯気』を営む。

Instagram
https://www.instagram.com/yuge_nakano/