ライフスタイル
僕が住む町の話。/文・今泉力哉
私と新橋について
2021年5月18日
illustration: Eiko Sasaki
2021年5月 889号初出
これといって特に縁もゆかりもなかった新橋が最近好きだ。と言ってもなにか特別な場所を訪れるわけではない。住んでいるような感覚で、最近よく滞在している。私は今、横須賀線沿線の神奈川県某所に住んでいる。東京特集なのに申し訳ない。ただ、逆に都内に住んでいた時よりも、ホテルであったり、知人宅であったりと、都内のさまざまな場所で寝泊まりするような機会が増え、ここ数年、以前より東京に詳しくなった。今回はその中の一箇所、新橋について書こうと思う。
サラリーマンでもない私と新橋との出会いはと言えば、やはり映画館である。新橋に限らず、そもそも私は映画館か喫茶店に行くくらいしか普段どこにも出かけない。その存在を知り、足繁く通ったわけではないが何度か行った映画館が今はなき、新橋ロマン劇場だ。まだ都内に住んでいた2014年6月。神代辰巳の『赫い髪の女』を見に行った。同じ回を見ているまばらな客の中に橋本愛さんの姿があった。そこでお会いするまでに少しだけ面識があった私は、帰り際、外でちょっぴり話したりできないかな、などと思ったりもしたが、終映後、橋本さんはその姿をはらりと消していて、まあロマンポルノを見た後だし、有名な方だし、そりゃあはらりと消えるよなあ、などと妙に納得したまま、帰りの電車に乗った。すると、なんということだろうか。同じ電車の隣の車両からふらりと彼女が現れ、ともに会釈、少しだけお話しすることとなった。映画館には女性専用シートなどがあったにもかかわらず、それを無視した観客の男性が途中から近くに座りだして、少しだけ気が散り、とあるシーンのセリフが聞き取れなかったため、そこのセリフを教えてほしいと言われた。教えた。はらりと消え、ふらりと現れた橋本愛はとても美しかった。
それから6年。2020年11月。コロナが蔓延してしまった世界で、私は遅れに遅れた脚本執筆をなるべく誰にも会わずに行わなければいけない状況に陥っていた。それを契機に、私がその後、幾度となく訪れ、過ごしている場所が新橋の烏森口周辺である。相鉄フレッサイン新橋烏森口というホテルを根城として、1階にあるローソン、2階にあるルノアール、また、少しだけ歩いた場所にあるTSUTAYA新橋店内にあるスターバックスコーヒーだけで毎日過ごした。今は知らないが、当時スタバのトイレが修理中で、用を足す際はスタバを出てすぐ向かいにある桜田公園の公衆トイレを使用しなければならなかった。スタバで執筆し、飽きたらコンビニを経由し、ホテルの部屋に戻り一服、2階のルノアールへ。ホテル、ローソン、スタバ、ルノアール、桜田公園をぐるぐるしながら過ごした。喫茶店でしかものが書けない自分にとってはとてもいい環境のはずだった。しかし、その時期、なぜか脚本は思うように進まなかった。やはり人に会って駄話をしたり、酒を飲んだりしないと何も書けない。言い訳だけど事実そうだ。コンビニ弁当もさすがに飽きが来た。あまり外出するのはよくないと思いつつも、体にいい、うまいものを食べたいと思った。ひとり黙々と食べる分には、別にコロナも広めないだろう、罰も当たらないだろう、と思い、日々、脚本執筆でしか使用していないノートパソコンで「新橋(スペース)湯豆腐」と検索した。するとホテルから徒歩数分のところに、湯豆腐で飲める店『双葉』があることがわかった。
『双葉』を訪れた。特にメニューはない。お腹空いてる? と気さくに聞いてくる店主。歳はいくつくらいだろうか。50にも70にも見える。「うちは湯豆腐しかないけど」はい、それを食べに来たんです。「じゃあ適当にいろいろ出すね」湯豆腐はとても美味しかった。豆腐はもちろんなのだが、醤油がとかく美味かった。器に入った醤油が豆腐とともに鍋の中で温められていて、しょっぱい、という言葉が似合う濃い味をしている。この濃い醤油で豆腐を食べるのに合うのは日本酒だ。店主にも薦められたし、薦められなくても日本酒で間違いないのはわかっていたが、なくなくビールにした。ビールならまだ仕事はできる。まず、木綿を二丁。そしておでんやガンモ、漬物など、いろいろ出していただいた時点で相当お腹いっぱいになっていたのだが、「まだ食べられるでしょ? じゃあ、サービスね」と今度は絹が鍋に投入された。「あ、実は木綿が好きでして、いただけるなら木綿が……」とは思ったのだがそれは贅沢というもの。絹も残さず食べ、お店を後にした。うん、やっぱり木綿が美味しかったな。どうにもお腹がいっぱいになってしまったので、せっかく日本酒を我慢したのに、そのまま寝た。
翌日。相も変わらず筆が乗らず、駅前のパチンコ店UNOに逃げ込んでサボっていたら、隣の隣の隣の台に双葉の店主が座っているのが視界に入り、とっさに隠れた。実際には斜を向いた。いそいそと店を後にして、スタバに向かい、脚本を書いた。
PROFILE
今泉力哉
※プロフィールは誌面掲載当時のものです。
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