ライフスタイル
【#3】 花咲く一年目娘の異文化体験
執筆: 鈴木涼美
2023年5月22日
photo: Takao Iwasawa(portrait)
text: Suzumi Suzuki
edit: Yukako Kazuno
晴れてなんとか不自由がない程度に意思疎通ができるようになっても、何かと勝手の違う英国での生活一年目には戸惑いや驚きがなくなるということはなかった。
細かいことは色々ある。例えば当時のロンドンの水道水は一応ちゃんと清潔で飲めるとは言われているものの、石原慎太郎が都知事時代に自慢していたような東京都の水道のまろやかさは一切ない、カッチカチの硬水。湯沸かしポットはたまに石灰除去剤を使わないと内側は3ヶ月で真っ白になる。今でこそダイエットや美容のためにわざわざ通常より高いボトル入りの硬水を買う女性は多いが、基本的に美味しくないし肌にも優しくない。加えて英国は蒸し暑い日本とは真逆の乾燥大国なので、ロンドン娘たち、基本的に風呂やシャワーへの執着がない。とある米国出身ロンドン在住の女性は、米国人と英国人の一番の違いはシャワーと洗髪の頻度だと言っていたくらいで、私が最初の夏休みに入ったサマーキャンプでは、化粧をしているようなティーンの女子なのに一週間一度も髪を洗っていない子というのはざらにいた。だから割とみんな靴が臭い。
こういうちょっとした生活習慣の違いで気まずい思いをすることもあって、例えば学校に入って2ヶ月目くらいの頃、仲良くなった金髪ちゃんの家に初めて泊まりに行った時の話。お父さんが英国出身の映画プロデューサー、お母さんがノルウェー出身の元ダンサーという彼女の家は、我が家が借り住まいをしていたフラットの数倍大きい立派な一軒家で、バスルームも上下階に2つもあるのだが、例のごとく夜になっても誰かが風呂に入る様子はない。湯けむりの国からやってきたとはいえ別にすごく清潔な育ちではない私も、一日二日風呂に入らないのは平気なので、顔洗って歯を磨いて寝るというつもりでバスルームに入ったら、手渡されたのはやけに小さい、吸水性の低そうなタオル。今の私がバッグに入れて持ち歩いているハンドタオルよりさらに小さい。お金持ちの家というとホテルみたいに大袈裟なタオルを大袈裟な枚数積み上げていそうなイメージなので、随分小さいなと思いつつもバシャバシャと顔を洗ってその小さいタオルでなんとか顔を拭った。
数分後、私と入れ替わりにバスルームに入った金髪ちゃんが、「あれ、まだ途中?」と変なことを聞いてくる。「どうしてあなたのフランネルあんまり濡れてないの?」と言われていまいち何のことかわからない私は、えっともう顔は洗ったっす、とまだかなりぎこちない英語で答えてそのまま様子を見てみることに。
金髪ちゃんは自分用の例の小さいタオルをじゃぶじゃぶと水につけて絞り、それで顔を撫でていた。どうやら化粧を始める前のロンドン娘の標準的な洗顔は、顔を石灰だらけの硬水でバシャバシャ洗うことではなくフランネルと呼ばれるミニタオルをおしぼりのように使って少しリフレッシュするだけなのだった。そういえば欧州ブランドのクレンジングって、化粧と馴染ませて水で洗い流すタイプより、コットンに染み込ませて化粧を拭う、洗い流し不要のものが多いなぁと今となっては思うが、当時の私は知る由もなく、どれだけ水との接触避けるんだ英国人、と思ったのでした。
ちなみに金髪ちゃんに、私は顔を水で洗ってそのフランネルで拭いちゃったと説明したら、変なの、と言われたのでどちらが世界標準というわけでもないのであろう。ちなみにのちなみに、私は今でも拭き取りクレンジングよりもバシャバシャと水で洗う派です。
プロフィール
鈴木涼美
すずき・すずみ | 1983年、東京都生まれ。作家。慶應大環境情報学部在学中にAVデビュー。キャバクラなどに勤務しながら東大大学院社会情報学修士課程修了。修士論文は後に『「AV女優」の社会学』として書籍化。日本経済新聞社記者を経てフリーの文筆業に。小説から書評やエッセイまで幅広く執筆。著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『ニッポンのおじさん』『JJとその時代』『娼婦の本棚』『ギフテッド』など。最新刊『グレイスレス』は、女優たちにメイクをする化粧師の目を通して家族やポルノ業界を描いた中編小説。
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