CULTURE

『Cook the Books』 – イルマティック読書案内。 –

第2回:"幻のマイナー・ポエット"、伊藤重夫をめぐって。/文・井出幸亮

2021.09.23(Thu)

photo: Keisuke Fukamizu
text: Kosuke Ide
logodesign: Yota Shiraishi
edit: Yu Kokubu

第2回:伊藤重夫
『踊るミシン』(1986年、北冬書房)
『チョコレートスフィンクス考』(1983年、跋折羅社)


“幻のマイナー・ポエット”、伊藤重夫をめぐって。

 シティボーイズ&ガールズのみんなに向けて、good & illな本を紹介する新連載、「Cook the Books」。久々の第2回目は、とんでもなく素晴らしいマンガ作品を紹介したい。

 昨年8月、ミュージシャンの曽我部恵一さんがリリースしたシングル『永久ミント機関』のジャケット画像をネット上で見かけて、思わず仰天してしまった。そのオモテ面にでかでかと描かれていた女性のイラストが、1986年にマンガ家・伊藤重夫が発表した作品『踊るミシン』の中の一コマを使用したものだったから。曽我部さんも伊藤重夫のマンガが好きだったんだ! と知って、僭越ながら、密かな“同志”を見つけたような興奮を得た。こんな時って、すごく嬉しいものだ。 

曽我部恵一『永久ミント機関』アナログ盤12inchシングル

 伊藤重夫はある意味で“伝説”のマンガ家と言えるかもしれない。何せ91年以来、つまり30年にわたり新作を発表していない。その作品の多くは80年代に発表されたもので、当時刊行された単行本は『チョコレートスフィンクス考』と『踊るミシン』の2冊のみ。他には、散発的にマンガ誌などで発表された短編が十数本あるだけだった。

 しかし、たったこれだけの数の作品で、伊藤重夫は現在に至るまで一部の根強いファンに熱く支持され続け、読み継がれてきた。すでに単行本は絶版、古書においても長らく入手困難が続いており、復刊を望む声があがっていたが、何と2017年、そのリクエストに答えるように「踊るミシン復刊会」が立ち上がり、クラウドファンディングを通じて復刊が実現! 版元である「アイスクリームガーデン」から、限定470部の『踊るミシン 青版(Blue Edition)』として21世紀に蘇った。その翌年には再びクラウドファンディングにより、同版元から既発表の作品をまとめた短編集『ダイヤモンド|因数猫分解 クック(ロビン)版』も刊行。30年以上の時を経て、にわかにその再発見・再評価の機運は高まっている。

左:『ダイヤモンド|因数猫分解 クック(ロビン)版』(2018年、アイスクリームガーデン、限定950部)。過去作を新たに編んだ3冊目の作品集。 右:『踊るミシン 青版』(2017年、アイスクリームガーデン、限定470部)。復刊に際して単行本未収録カットも追加された。

 伊藤重夫のマンガ作品の内容を、一言で簡単に説明するのは難しい。既存のジャンルやカテゴリーのどこにもハマらない上に、似たテイストのマンガ家も思いつかない。ただそれでも、その作品に共通するいくつかの特徴を挙げることはできる。

 まず、その作品の多くが(一部例外もある)、大手出版社のいわゆる“メジャーマンガ誌”でない、先鋭的・実験的な作品を積極的に掲載する中小出版社の媒体に掲載されたもの、あるいは描き下ろしであること。そして、初期を除く作品のほとんどが、街(いくつかは伊藤自身が住む神戸)を舞台にした、10代~20代の若者たちの物語であること。また特に中期以後で見られる、ポップな絵柄と優れてデザイン的な構図(伊藤はデザイナーでもある)、鮮やかな色彩感覚は決定的に強い印象を与える。そして、その作品のすべてに横溢する、独自の繊細さと鋭さを併せ持つある種の文学的な世界観と、それを支える実験的な演出技法こそ、伊藤重夫の真骨頂とも言うべきオリジナリティだろう。

伊藤重夫『踊るミシン』より。

 中でも『踊るミシン』は伊藤の代表作であり、最高傑作と呼びたい中編だ。舞台は海辺の街(これも出身地である神戸の垂水区がモデルと見られるが、登場人物は関西弁を話さない)、季節は夏。主人公は浪人生でバンドマンの田村と、高校の同級生で今は女子大に通う麗花。田村にとって彼女は、時に憎まれ口を叩きつつも側にいるガールフレンドのような、微妙な距離感の存在だ。二人の周りに、バンド仲間の長井、高校の後輩・典子と幼い弟の信夫、バンドの練習部屋の大家で長期入院中の老人など、幾人かの人物が入れ替わり立ち代わり登場していく。

伊藤重夫『踊るミシン』より。

 彼/彼女らの多くは、特に大きな目標や明確な目的を持たない、ある種のモラトリアム的な生活を日々続けている。そうした起伏のない日常の中に不意に、高層マンションの周囲に浮かぶように現れる“鳥人間”や、田村の下宿の押し入れに出現した謎のブラックホールなどの超現実的な現象が起きる。こうしたSF的なエピソードと彼らのバンド活動、高校時代の思い出などが複雑に交錯して、物語はぎこちないラインを描くように訥々と進んでいく。

 驚かされるのは、本作では「場面の転換」や「時間の経過」などを表す際に慣例的に使われる説明的なコマ割りや絵の演出、いわゆる「マンガの文法」が徹底的に外され、解体されていることだ。異なる時間や場所で起こったエピソードや回想シーンが突如ジャンプしてシームレスにつなぎ合わされており、一般的なストーリーマンガの感覚で本作を読んでいると、読者はすっかり時制や舞台を見失ってしまうだろう。しかし注意深く読んでいけば、物語の構造はきちんと理解できるし(だから何度も読みたくなる)、それらがごく緻密な演出意図のもとで配置されていることにも気がつく。

伊藤重夫『踊るミシン』より。

 また時おり挟まれる、街の風景も実に印象的。水路、断崖、階段、防波堤、ガードレール、木造家屋、釣りエサの店、小さな電器屋、缶コーヒーや音楽教室の看板など……まだギリギリ「昭和」の時代に描かれた作品でありながら、すでにどこかにノスタルジーを滲ませたその風景画は、緻密な線画の中に大胆な省略を導入し、「白と黒」のコントラストを際立たせることで、真夏の強かな陽光とともに、彼らの停滞した時間をも鮮烈に刻みつけるよう。最高にクールだ。

 登場人物たちの間で交わされる、噛み合うようで噛み合わない会話。何気ない日常の瞬間を捉えた断片的なシーン。そして、ラストに近づくにつれて色濃く漂う、不条理な“性と死”のイメージ……その手触りをあえて例えるなら、最初期の村上春樹作品に近い感性と言えるかもしれない。同じ阪神エリア出身という出自のせいなのか、80年代という時代の空気感なのか。とにかくこの21世紀において最も出会い難い詩情に溢れ、そして今読んでもまったくフレッシュな魅力が色褪せない、奇跡的な名作だと思う。

『踊るミシン』の説明が長くなってしまったけれど、それ以外にも素晴らしい作品はたくさんある。『踊るミシン』の習作でもあるような『チョコレート・スフィンクス・アゲイン』(『チョコレートスフィンクス考』収録)、そして最後期の作品であるアーバン&スタイリッシュなフルカラーマンガ『ダイヤモンド』(『ダイヤモンド|因数猫分解』収録)が特に好きだ。

伊藤重夫が表紙イラストを手掛けた『美味しく遊ぼ・食べ歩きMAGAZINE 関西編』(1987年、ナンバー出版)。この他、挿画家、装丁家としてもさまざまな仕事を残している。

 伊藤重夫はもともと、70年代初頭から『跋折羅』(バサラ)なる自費出版の同人マンガ雑誌を、三宅秀典・三宅政吉の兄弟、勝川克志らと4人で刊行するメンバーの一人だった。当時20代の若い彼らにとって、同時代の『ガロ』(青林堂)に描いていたつげ義春、つげ忠男、林静一、佐々木マキ、安部慎一、鈴木翁二らの先鋭的なマンガ家たちは憧れであり目標だっただろう。『跋折羅』同人の彼らは、何と軽オフセット印刷機や製本機までを入手し、編集・製版・印刷・製本・販売までを自ら行っていたというからすごい。同誌の誌面は独特の手書き文字で埋め尽くされていて、新たな感性で自由なマンガ表現の世界を切り拓こうという、熱いインディー・スピリットが今見てもビンビン伝わってくる。これも古書などで発見したらぜひ見てもらいたい。

『跋折羅』3号(1972)、5号(1976年)、7号(1981年、すべて跋折羅社)。

 91年以後はグラフィックデザイナーや挿画家としての活動を中心に据え、マンガ作品を発表していないが(『踊るミシン』発表後のインタビューでは「60年代前半の神戸の話を描こうと思ってる」「幕末の話も描きたい」などとも語っていたのだけど)、現在も神戸でデザインスタジオを営んでおられるとのこと。未来のいつか、この“幻のマイナー・ポエット”から再び新たな贈り物が届けられることを願ってやまない。最後に、短編集『チョコレートスフィンクス考』のオビに書かれた素晴らしいコピーを引用して、このほとんどファンレターみたいな一文を終わりにしようと思う。

虚空よふれ。劇画はニジムだけでいい。
水蒸気が立ちこめたなら、
それが伊藤重夫だ。

文・井出幸亮

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