カルチャー
コーマック・マッカーシー著『通り過ぎゆく者』をレビュー。
クリティカルヒット・パレード
2024年6月12日
illustration: Nanook
text: Kohei Aoki
edit: Keisuke Kagiwada
アメリカ文学を研究する青木耕平さんが新しい小説をレビューする「クリティカルヒット・パレード」。今回取り上げられるのは、コーマック・マッカーシー著『通り過ぎゆく者』だ。
1980年代から2000年代までのアメリカ文学シーンにおいて、コーマック・マッカーシーこそが最高の小説家だった。そう断言することに評者は何の躊躇いもない。この時期に書かれたマッカーシーの長編小説の全てが例外なく破格の傑作であり、そのビブリオグラフィーは奇跡的でさえある。
コーマック・マッカーシーは1933年に生まれた。ジョン・バースやトマス・ピンチョンといったほぼ同世代の書き手たちがポストモダン文学でシーンを賑わせていた1960-70年代、反時代的とも形容したくなるウィリアム・フォークナー直系の南部ゴシック小説を書くマッカーシーの知名度は低かった。しかし1985年、『ブラッド・メリディアン』を上梓するとマッカーシーを取り巻く環境は変わった。先住民討伐隊の容赦ない暴力と世界の無慈悲さを記述する哲学問答が入り混じった『ブラッド・メリディアン』をスティーヴン・キングは現代小説の最高峰と呼び、一切の無駄を排除した研ぎ澄まされた文体に魅了されたデヴィッド・フォスター・ウォレスは「作家が憧れる作家」とマッカーシーを絶賛した。
そして冷戦崩壊後の1990年代、マッカーシーは「国境三部作」と呼ばれる長編小説群を立て続けに発表し、批評的にも経済的にも大きな成功をおさめ誰もが知る作家となった。同時多発テロ後には、同じく米墨国境地帯を舞台とした『ノー・カントリー・フォー・オールドメン』を発表し、その地位を揺るぎないものとした。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートはその著書『アセンブリ』の中で、21世紀最高の小説と名高いロベルト・ボラーニョ『2666』に言及し、米墨国境地帯の連続殺人事件を執拗に記述するその内容が「世界の秘密を暴いている」と書いているが、ボラーニョよりも早くマッカーシーは「世界の秘密」を暴こうとしていたのだ。
2006年、マッカーシーは文明が崩壊したのちの世界を旅する父と息子を『ザ・ロード』で描いた。父と息子は「火を運ぶ者」だった。物語終盤で父は息絶えるも、息子は「火を運び続けなければならない」と、新たに出会った仲間たちと歩み続ける。この時、マッカーシーは作家生活40年を迎え、すでに年齢も70を超えていた。英国BBCの文化記者は、「『ザ・ロード』はマッカーシーの作家キャリアを締めくくる完璧な最終作だと思った」と述べている。評者もそう思っていた。
しかし、しばらくすると新たな作品の噂が人々の口にのぼり、実際にマッカーシーは執筆に取り組んでいることを明らかとした。2015年、そのタイトルが、『通り過ぎゆく者』となることが公式にアナウンスされた。しかし、その報道以降、新作の情報はほぼ出回らなくなった。マッカーシーの年齢を鑑みて、もう新作は完成しないのかと半ば諦めていた2022年初夏、同年10月に『通り過ぎゆく者』が刊行されるとの告知がリリースされた。しかも、『通り過ぎゆく者』だけではなく、『ステラ・マリス』と呼ばれる作品が立て続けに刊行されるとの報に我ら世界中の読者は色めき立った。
2022年10月、小説としては実に16年ぶりのマッカーシー新作発売日、私はアメリカに研究滞在していた。朝から書店を巡り、最も目立つ箇所に大きく陳列されているハードカバー版を手に入れ夢中で読んだ。『通り過ぎゆく者』前半はため息が出るほど完璧である。以下に簡単なあらましを説明しよう。
舞台は1980年代初頭のミシシッピ。主人公は37歳のボビー・ウェスタン。海や湖に沈没したものを潜って引き揚げる「サルベージ・ダイバー」としてボビーは働いている。ある日ボビーはメキシコ湾岸に墜落した小型飛行機のサルベージを同僚とともに行う。海底にある飛行機の残骸には他に誰も立ち入った形式はなく、乗客も全員が亡くなっていたことを確認する。しかし、その探査後にボビーは不審な男たちの来訪を受ける。男たちが明かしたところによれば乗客は10名いたはずなのに死体が9名しかない。10人目の乗客の行方をあんたは知ってるんじゃないか──。ボビーはその後も男たちにマークされ、不穏なことが立て続けに起こる。小型飛行機墜落という大事故なのに新聞もテレビも一切の報道がない。ブラックボックスもその行方がわからない。そのような中、ボビーとともに海に潜った同僚が、違う現場で事故死に遭う。危険を察したボビーは逃亡を企てる──。
上記を物語の軸として、ボビーの来歴が語られる。非常に優秀な物理学者だったが、天才と呼ばれる領域におらず研究者の道を諦めたこと。その後にカーレーサーとなったがヨーロッパで大事故にあい怪我を負ったこと。天才的に優秀な数学者の妹アリシア・ウェスタンがいたこと。アリシアは10年前に自殺していること。そのアリシアとボビーは兄妹ながら愛し合っていたこと。そして兄妹の亡くなった父親は、オッペンハイマーと同じ「マンハッタン計画」に従事した原爆開発者の一人であったこと──。
この前半のプロットとウェスタン一家の謎が、あまりにも、あまりにも、あまりにも魅力的なのだ。あなたがマッカーシー読者であれば、わずか冒頭100ページの間にそれまでの全作品との連続・類似性を発見できるだろう。オッペンハイマーやウェスタン兄妹の父親によって開発された原子爆弾は「文明を滅ぼす火」であった。そもそも火はプロメテウス神話から文明の象徴であった。人類文明崩壊後に「火を運ぶ」近未来の寓話『ザ・ロード』を著したのち、再びマッカーシーは「火」にまつわる物語へと向かった。まさに『通り過ぎゆく者』はマッカーシーのキャリア総決算にして始原に戻る最高の引退作ではないか。ここからボビーが物語世界の謎を解くに違いない──。そう私は思っていた。
しかし、物語はそのように進まない。物語がその謎を解こうとしない。ボビーは政府組織に監視される。ボビーの口座は国税庁に押収される、何の事前通告も、裁判所の通達もなく。ボビーは何が起きているのかわからない。身を守るため雇った私立探偵が、ボビーに(そしてわれら読者に)こう警告する:
あなたはわかっていないようですね。
何を。
自分が拘禁されていることを。
おれは拘禁されているのか。
そうです。どんな罪でも告訴はされていません。ただ拘禁されているのです。
ここにおいて物語はスリラーであることを放棄する。これはカフカ『審判』であり、ボビーは『城』の測量士Kのように世界に投げ出される。謎は解かれない。世界は暴かれない。物語後半に待っているのは劇場版ではなくTV公開版『エヴァンゲリオン』第25話、26話であり、TV版ではなく劇場版の『ツイン・ピークス』である。
さて、実はここまでのレビューにおいて、『通り過ぎゆく者』の半分しか内容を示せていない。長編小説『通り過ぎゆく者』には、ボビー・ウェスタンの物語と併録される形で、異なった時間軸と空間で進行するもう一つの物語があり、もう一人の主人公がいる。彼女こそが、10年前に自殺で亡くなったボビーの妹アリシア・ウェスタンである。天才的な知性を有するアリシアのもとに、〈ザ・キッド〉と呼ばれるこの世ならざる男児が姿を現し、アリシアと不可解な会話を交わす。〈ザ・キッド〉は奇形の胎児であり、第二次世界大戦後に開発されたサリドマイドによる薬害の犠牲者でもある。
謎が謎として差し出されたまま『通り過ぎゆく者』は幕を閉じる。正直に告白すると、当時英語で読み終えた私は後半の展開に納得がいかなかった。もちろんそれは私だけではなく、そのような読者は多くいた。それから二ヶ月後、第二部『ステラ・マリス』が到着する。その内容は『通り過ぎゆく者』より約10年前、ステラ・マリス精神病院を舞台としたアリシア・ウェスタン生前最後の対話録だった。当時の私はこの完結編にただ戸惑っただけであった。しかし、この見事な黒原敏行訳で実に一年半ぶりに再読した今、物語への評価が変わりつつある──。
おっと残念、今回わたしに許された文字数を超過してしまった。今回のクリティカルヒット・パレードはここで終えよう。次回『ステラ・マリス』へと続くのかどうかは、10人目の乗客のみが知っている……!
レビュアー
青木耕平
あおき・こうへい|1984年生まれ。愛知県立大学講師。アメリカ文学研究。著書に『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』(共著、書肆侃侃房)。
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