カルチャー

月曜日は批評の日! – 小説編 –

2023年4月3日

illustration: Nanook
text: Kohei Aoki
edit: Keisuke Kagiwada

毎週月曜、週ごとに新しい小説や映画、写真集や美術展などの批評を掲載する「クリティカルヒット・パレード」。4月の1週目は、アメリカ文学を研究する青木耕平さんによる、ルッツ・ザイラー著『クルーゾー』のレビューをお届け!

『クルーゾー』
ルッツ・ザイラー(著)金志成(訳)
¥4,400/白水社

 冒頭から私的な話で恐縮であるが、トーマス・マン『魔の山』は、評者にとって人生トップ5に入る重要な作品である。主人公ハンス・カストルプも、その友ヨーアヒム・ツィームセンも、ラディカリストのナフタも、ヒューマニストのセテムブリーニも、魅力溢れるショーシャ夫人も、そしてあの「人間」そのものであるメインヘール・ペーペルコルンも、私のなかで永遠に生きている。彼らに出会わなかったら、私の人生は多少なりとも違うものになっていたはずだ。さて、現在書店に並んでいる『クルーゾー』に巻かれた帯の正面と背には、大きく目立つ形で「21世紀の『魔の山』」という宣伝文句が踊っている。これは、本書がドイツ国内の文学賞を取った際に寄せられた賛辞からの引用であり、この文言に魅かれて私はまんまと『クルーゾー』を手に取った。

 『クルーゾー』は、本編開始前に『ロビンソン・クルーソー』の引用が掲げられているように、ダニエル・デフォーの古典『ロビンソン・クルーソー』を文学史的な先行作品として持っている。なるほど、二つの偉大な古典が範にあるのね、そう思い読み始め、そして驚愕した。これは『ファイト・クラブ』じゃないか。それも原作版の『ファイト・クラブ』だ。

 ブラット・ピットとエドワード・ノートンが躍動するスタイリッシュな映画版と異なり、小説版で「語り手」とタイラー・ダーデンが初めて出会うのはヌーディスト・ビーチだ。そこでダーデンは汗に濡れ、砂の上にアートを作っていた。人生に倦んだ男の前に突如として現れた、生きる力に満ちた男。その始まりには濃厚なホモ・エロティシズムがあり、その二人を中心として、生きづらさを抱える現代人たちの危険な共同生活が始まる。

 『クルーゾー』でもまた、人生に疲れた一人の若者エドガーが、海に近いレストランで出会った濃厚な生の活力をたたえた男クルーゾーに惹かれ、砂の上で社会にあぶれた者たちと共に暮らす中で人生が大きく変わっていく。ただし、両作品の持つ爆発的なエネルギーの矛先と、それを生み出した社会的背景は、全く異なる。

 アメリカ研究の文脈において、「1990年代」は「1989年11月9日に始まり、2001年9月11日に終わった」と括られることが多い。2001年9月11日、それは米国ニューヨークのツインタワーが崩れた日である。この日までの十年間、アメリカは世界唯一の超大国として繁栄を謳歌し、グローバリゼーションとはアメリカナイゼーションと同義で、アメリカ中心主義者は「歴史は終わった」などと喧伝し、その退屈さにうんざりした「語り手」がタイラー・ダーデンを幻視した時代であった。

 対して、『クルーゾー』でエドガーが夢見るクルーゾーは、虚構の時代の虚人ではない。『クルーゾー』の舞台は東ドイツ国境地帯であり、本編最後の日にちは、「1989年11月9日」に設定されている。1989年11月9日、東西ドイツを分断するベルリンの壁は打ち倒された。その翌月、東西冷戦は正式に終結し、1990年についに東ドイツは西ドイツに吸収される形で消滅した。東ドイツ最後の日々、バルト海を望む最北端の海辺、泳げば西側にたどり着く、その自由が制限されたレストランに人々は集まり、旺盛な生命力を蕩尽する。

 國重裕は『壁が崩れた後のなかで、ドイツ統一後に東ドイツを舞台とした小説が多く書かれ、それらの小説はノスタルジーを喚起する以上に様々な批評性を有していると整理している。本書は2014年発表の作品であるが、亡命をしようとし海で溺死する人々は2015年以降の難民危機と重なる(このテーマに関しては2015年刊行でこちらも東ドイツの記憶が大きな意味を持つ『行く、行った、行ってしまった』を強く推す)。なによりウクライナ紛争で、「ポスト冷戦」なる言葉がしきりに問いに付されている現在、よりアクチュアリティを持つだろう。

 ただし、実は評者は本作をそこまで堪能しきれなかった。というのは、著者ルッツ・ザイラーは著名な詩人であり、本作は彼の長編小説デビュー作なのであるが、詩的喚起力に物語が寄りかかりすぎていると感じた。よって本作にはハンスたるエドガーはいるが、ヨーアヒムもナフタもセテムブリーニもショーシャ夫人も、すべてがメインヘール・ペーペルコルンたるクルーゾー一人に曖昧なかたちで統合されている。それでは総合小説としての『魔の山』には遠く及ばな……と、ここまで書いて、これらはすべて『魔の山』を愛しすぎるがゆえのものであることに思い至った。読者諸氏には「21世紀の『魔の山』」なる宣伝文句に気を散らすことなく読んでいただきたい。そして忌憚なき感想を、私に教えてください。

レビュアー

青木耕平

あおき・こうへい | 1984年生まれ。愛知県立大学講師。アメリカ文学研究。著書に『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』(共著、書肆侃侃房)。