カルチャー

月曜日は批評の日! – 写真集編 –

2023年2月20日

illustration: Nanook
text: Runa Anzai
edit: Keisuke Kagiwada

毎週月曜、週ごとに新しい小説や映画、写真集や美術展などの批評を掲載する「クリティカルヒット・パレード」。2月の3週目は、編集者の安齋瑠納さんによる、写真集『眠る木』のレビューをお届け!

『眠る木』
上原沙也加(写真)
¥4,950/赤々舎

 上原沙也加の写真に出会ったのは、写真集をはじめとするアートブックを専門に手掛ける出版社、赤々舎のウェブサイトだった。ポパイウェブで写真集レビューを書くにあたって、編集部から出された「直近3ヶ月以内に出版された作品」というお題に答えるため、国内外の大小さまざまな出版社の新書をリサーチしていた時だった。「沖縄で生まれ、再びその地で暮らしながら写真を撮る、上原沙也加の初写真集」というキャプションとともに写真集には珍しいイラストが描かれた「眠る木」の表紙とウェブサイトに掲載されている数枚の写真に目が止まった。表紙を飾る白いワンピースを着たマネキンの写真には「黒糖ならこの味!」というキャッチフレーズと沖縄の地図が印刷された段ボールが写っている。間違いなく、それらは沖縄で撮影された写真であるにもかかわらず「これは一体どこで撮影された写真なのだろう?」というのが上原の写真に対する第一印象だった。なんだか私の知っている沖縄とは違う感じがする……。そんなぼんやりとした不思議な感覚の正体が知りたくなり、写真集をオーダーした。

 沖縄を題材にした写真集は数多く存在し、近年では同じく赤々舎から出版されている石川竜一の「絶景のポリフォニー」や「okinawan portraits」、石川真生の「赤花 アカバナー沖縄の女」、遡れば、東松照明や森山大道も沖縄をテーマにした写真集を出版している。そしてそのほとんどがタイトルに「沖縄」という言葉が入り、沖縄らしいモチーフや風景、さらにはポートレイトなどそこに住む人々の存在を強く押し出すような作品が多い。しかし、「眠る木」においては、そうした共通言語としての「沖縄」の表現は重要ではないと感じる。人物もほとんど写らず、人影や人間味を感じる要素も削ぎ落とされている。ここは日本なのか? アメリカなのか? はたまたまったく別の場所なのか? 極めてミニマルな要素で構成された写真が地域性を曖昧にすることで「ここはどこなんだろう?」という不思議な感覚を引き起こし、私たちが普段生活をする中で出会ったことのある風景のような、誰もが共感できるノスタルジックな親近感をもたらしているのだ。しかし同時に、その人気の無さが引き起こす静寂を不気味に感じる瞬間がある。ページを進めるにつれて少しずつ如実に(そしておそらく意識的に)現れる英語と日本語が併記された看板や汚れたドル札の写真、自衛隊のポスターや日章旗。それらが徐々にその曖昧な地域性を暴き、ここが50年ほど前まで日本ではなかったという現実を突きつけるのだ。

 赤々舎の解説には「タイトル『眠る木』は、本書に収められたさまざまな木のシルエットと同時に、ギンネムを殊に想起させる。又吉栄喜が小説「ギンネム屋敷」の扉に、「終戦後、破壊のあとをカムフラージュするため、米軍は沖縄全土にこの木(ギンネム)の種を撒いた」と記すように、沖縄のどこにでも繁茂しているギンネム。土地に根を張ったこの木から、フェンスのような表紙の模様は施された。その上に、明暗のあいだに浮かびながら、マネキンの指の写真はある」と書かれている。その木は沖縄ではだれもが知っている木、相即不離の過去と現在を象徴する木なのだ。

 前述したように、上原の写真はある種の親近感を伴って沖縄の風景へと私たちを誘う。しかし、そんな写真に油断をしていると暗闇の中から強烈なフラッシュの光で写し出されるギンネムの木や戦争が残したさまざまな痕跡にハッとさせられる。本書の最後に綴られている映像批評家、仲里効の文章を読み、ギンネムの木が沖縄に蔓延る背景に思いを巡らせると、写真にはおさめされなかったその土地に暮らす人々や彼らが辿ってきた足跡を考えずにはいられない。上原やそこに住む人々にとって沖縄とはどんな場所なのか? もしも、私が住んでいる街にギンネムが繁茂していたら? 長く、ずっしりとした余韻が頭の中に残り続ける。

レビュアー

安齋瑠納

あんざい・るな | 1995年、長野県生まれ。2011年に渡英。ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション、ファッションフォトグラフィー学科を卒業後、2017年に帰国。以降、東京を拠点とするクリエイティブエイジェンシーkontaktでプロデューサーとして従事しながら、写真やファッション関連の執筆を行う。