カルチャー

彫刻という経験

Catching Art: 身体でアートを感じるために #3

2025年10月14日

Catching Art


text: Daniel Abbe

「彫刻」は「経験」か? はい、そう言えると思います。前回、美術館にある絵画について話しながら、「観る」ということが身体的だと言いましたが、今回は別の角度から、観ることの身体性について話したいと思います。

そもそも「彫刻」と聞いたら、何が思い浮かぶだろう。『ダビデ像』、観音像など人物像のものではないでしょうか。だから最初から彫刻は身体との関係があると思うのですが、より詳しく探っていきましょう。

前回取り上げた絵は平面なので、観る人は定義上それに直面しなくてはならない。少なくとも、「表」だけがあって、「裏」は全くないのです。(もちろん例外ありますが!)彫刻の場合は根本的に異なっている。つまり、彫刻は立体なので360度からでもみえる。私たちの眼は顔という平面に貼ってあるので、彫刻の全てを一気に観るのは人間の視覚の能力を超えていおり、物理的に動かないとできない。そうすると、「彫刻を観る」ということはなんだろう。『ダビデ像』の全てを観ることは、そもそも不可能なのではないでしょうか。

まあ、ここは「はい」とか「いいえ」というはっきりと答えはないと思います。例えば『ダビデ像』を回って、一生懸命見て、次の日に頭の中のイメージを合成することは十分可能だと思います。しかし、それはただの「眼で観ること」を超える何かがあるように思います。言いたいのは、もう推測できるでしょう? 「彫刻を観る」ことは眼に入る情報の問題だけではない。空間の感じ方、つまり身体の感覚も重要なのです。これが私が伝えたい「彫刻という経験」なのです。

より明確に説明するために、二人の彫刻家を紹介したいと思います。

まずはイタリア人であるメダルド・ロッソ。彼は今までの話を実は反するけど、例外として紹介しますね。ロッソは1900年前後に多くの作品を制作しました。ちょうどこの時期に、写真が普及していたので、美術作品も頻繁に撮影されるようになっていました。ロッソがこれを見て、積極的に自分の作品に取り入れようとした。そこで彼は、そもそも写真撮影されることを想定して、彫刻を作り始めたのです! 写真に撮影された時にどう見えるかを逆算していた。例えば人物像を作って裏側を完全に未完成のままにしました。結局、写真で見えない彫刻の裏側なんて、誰が気にするだろう? 少し大げさに言えば、この作品の本当のメディアは三次元である彫刻ではなく、二次元である写真だったのかもしれません。だから今までの彫刻の経験の話では、ロッソは「例外がルールを証明する」好例です。

ロッソが私の「彫刻は体験」という考えに反するなら、アメリカの彫刻家のリチャード・セラはそれを完全に裏付ける。セラは鋼板などの工業用素材を使って作品を制作していた。鋼板は可塑性に乏しいため、『ダビデ像』のような写実的な人体像を作ることは事実上で難しい。しかし、セラの彫刻は特定の「何か」をあらわしているわけではない。そこには「物語」もない。私がここでリンクしている二つ画像を見たら分かると思います。

では、そこに何かあるのか? この作品はどう感じるのか? 問題はやっぱり写真だけを見ていても、本当の感覚は掴みづらいというか無理でしょう。ロッソの作品が写真のために逆計算されていたのに対し、セラの彫刻は、実際にそのそばに立ち、周りを歩き、時には中を通り抜け、そこを流れる空気を肌で感じることはほぼ必須と言っていいくらい。

それでは、彫刻の周りを歩き回る状況を考えてみましょう。『ダビデ像』の場合、どの角度から見ても、それが人間をあらわしていると認識は絶対できる。しかし、セラのこの(ギャラリーに設置されていた)彫刻ではどうでしょう。その周りを歩くと、それはただの平面から、真正面に立つ瞬間には、ただの一本の線へと変化している。つまり、この彫刻の実際の「意味」は、空間内におけるあなた自身の身体の位置によって変化している。彫刻の見え方は、あなたの体に依存しているのです。これこそが「彫刻の体験」なのです。

プロフィール

ダニエル・アビー

1984年生まれ。アメリカ合衆国カリフォルニア州出身。美術史博士(UCLA)。2009年から日本の美術や写真にまつわる執筆・編集・翻訳に携わる。現在、大阪芸術大学 芸術学部 文芸学科の非常勤講師として美術史・写真史を教えている。
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